『戦う操縦士』 (光文社古典新訳文庫) A・サン=テグジュペリ 著

  • 2018.03.29 Thursday
  • 12:56

『戦う操縦士』 (光文社古典新訳文庫)

  アントワーヌ・ド・サン=テグジュペリ 著/鈴木 雅生 訳

 

   ⭐⭐⭐⭐⭐

   不毛な任務に死を賭して挑んだ作家が信じたもの

 

 

『星の王子さま』で多くの人に夢を与え続ける作家A・サン=テグジュペリのもう一つの顔は現役飛行士でした。

はじめは民間の郵便飛行士でしたが、ナチスドイツとの開戦後、自ら戦闘部隊への転属を志願し、偵察機のパイロットになりました。

その偵察部隊での体験をもとに書いた小説が本書です。

 

冒頭は聖ヨハネ学院時代ののどかな回想から始まるのですが、

サン=テグジュペリは圧倒的なドイツ軍の前に敗色濃厚のフランスの悲愴な現実へとすぐに引き戻されます。

ドイツ軍の占領地を越えてアラスへと飛行する決死の偵察任務が言い渡されるのです。

この小説はサン=テグジュペリが実際に敢行して戦功十字勲章を受けたアラスへの偵察飛行の一部始終を描いています。

臨場感のある戦場を描いた小説であることに違いないのですが、

注意深く読めば、戦記物のスリルとは縁遠い思索的な内容であることが理解できると思います。

 

僕が本作を読んで気になったところは、

サン=テグジュペリの戦場経験による思索が、いわゆる〈フランス現代思想〉に代表されるポストモダン思想と地続きにあることです。

たとえば全体性を奪われた細部や断片性こそが真実であるという認識。

 

ただ、いまの私には、きちんと考えるために必要な概念も、明晰な言語も欠けている。矛盾を通してしか考えられない。真実は千々に砕けてしまい、私にはそのばらばらになった破片をひとつ、またひとつと考察することしかできない。

 

もちろん、この断片性は肯定的に捉えられているわけではありません。

「断片はひとの心を動かしはしない」とサン=テグジュペリは書いています。

静けさの中で死者が全体を取り戻し、そこでようやく真の悲しみが訪れる、とも言っています。

 

だから出撃をひかえた私にしても、西欧とナチズムの闘争、などといった大それたことに思いを馳せているわけではない。すぐ目の前にあるもろもろの細部について考えているだけだ。アラス上空を七〇〇メートルという低空で偵察飛行する愚劣さ。われわれに期待されている情報の無意味さ。身支度の面倒さ。まるで死刑執行人を迎えるために身づくろいをしている気持ちだ。

 

こう書かれているように、断片性や細部だけの無意味さを生きることは、死を待つ深い絶望と深く結びついています。

日本の無知なポストモダン学者は、その思想のルーツがこのような戦争経験によってもたらされていることを全く理解せず、

それが近代批判の賜物であるかのように誤解しています。

ツイッターごときを断片性として語ったり、無意味であることがオシャレであるかのような発想は、

本書を読めばどれだけ能天気なお子ちゃまの勘違いなのかが実感できるのではないでしょうか。

つまり、ポストモダンとは近代の末路である戦時中と地続きにある思想だと考えるべきなのです。

 

本作ではポストモダン的な「スーパーフラット」について語る場面も見られます。

 

それに一〇〇〇万の人間が訴えても、結局はただの一文に要約されてしまう。どんなことも一文ですむのだ。

「誰それのところに四時に行くように」であっても、

「一〇〇〇万人が死んだとのことだ」であっても、

「ブロワが炎上中だ」であっても、

「運転手が見つかりました」であっても。

どれもこれも、みな同一平面上に置かれているのだ。それも最初から。

 

すべてが同一平面に並べられてしまうスーパーフラットな価値観も、

ポストモダン以前の戦時中にそのルーツが確認できるわけです。

世界大戦の負の記憶を忘却したポストモダン思想にいかに価値がないか、よくわかると思います。

 

ポストモダンをバブル経済の只中で「新しい」現象として肯定的に受け入れた80年代の日本人と違って、

サン=テグジュペリは戦争というポストモダン的な現実を否定すべきものとして捉えています。

当然ながら、日本のポストモダン精神とサン=テグジュペリの精神とは立ち位置が全く逆になります。

だからサン=テグジュペリは日本のポストモダンが陥った偏狭なナショナリズムとも無縁です。

 

私は信じる、個別的なものへの崇敬は死しかもたらさないことを。──それが築くのは類似に基づいた秩序でしかないからだ。《存在》の統一性を、部分の同一性と混同しているのだ。大聖堂をばらばらに壊して、石材を一列に並べてしまう。したがって私が戦うのは、それが誰であれ、他の習慣に対してある個別の習慣だけを押しつける者、他の国民に対してある個別の国民だけを押しつける者、他の民族に対してある個別の民族だけを押しつける者、他の思想に対してある個別の思想だけを押しつける者だ。

 

戦闘のただ中で彼は普遍的な存在である《人間》の尊厳について力説していきます。

「私の文明が立脚しているのは、個人を通じての《人間》の崇敬だ」と述べて、

石材の総和では説明がつかない大聖堂の存在が、個々の石材に豊かな意味を与えるように、

個人を超越した《人間》こそが文化の本質であり、その再興が必要だとするのです。

 

サン=テグジュペリはアメリカの参戦を促すために本書を携えて渡米しました。

そのため、普遍的な人間の連帯を訴える必要があったと考えることもできますが、

そのような功利的な計算がサン=テグジュペリに似合わないことは、彼の熱心な読者には理解できるところだと思います。

彼は飛行機に「子供が母親に対して抱くような愛情を感じる」と書いていますが、

コクピットという子宮において、神秘体験に近似した恍惚状態となり、

ある種の啓示を得るというのがサン=テグジュペリの文学の核だと僕は思っています。

彼の憑かれたような熱弁は神秘主義者のそれであって、

全身で、それも命懸けで体感された啓示は、頭で考えただけの言葉を簡単に凌駕してしまいます。

彼が言葉だけの《人間主義》を批判し、行動の優位を語るのはそのためです。

 

自らの《存在》を築きあげるのは言葉ではなく、ただ行動だけなのだ。《存在》というのは言葉の支配下にあるのではなく、行動の支配下にある。

 

このあたりまでは共感を持って読み進められるのですが、

ここからサン=テグジュペリが行動のうちで最も重要なものが「犠牲」だと言い出すに至って、

現代の読者は非常に用心して読み進める必要が出てきます。

共同体のために命を捧げることが尊厳ある人間だと読むことができるからです。

 

友愛は犠牲のなかにおいてのみ結ばれる。自分より広大なものへと共に身を捧げることによってのみ結ばれる。

 

戦争のさなかに書かれた本作は、こうして動員の論理に吸収される面を持つことになります。

「私は昔から傍観者というやつが大嫌いだった」と語るサン=テグジュペリは、

ナチスと戦わずにアメリカに亡命し傍観者となったアンドレ・ブルトンを手紙で批判しているのですが、

彼がマルセイユ沖で散っていき、傍観者の方が生き残るのが歴史というものの裏側なのかもしれません。

その結果、〈フランス現代思想〉がサン=テグジュペリの啓示を動員の論理として退け、

普遍性を放棄した反人間主義による個のメタ化を称揚することで、

平和で貧しい現実を傍観的に肯定することが正しいことであるかのように主張してきました。

 

かくして文学や思想は貧しい現実を後追いするだけとなり、実質的には死に絶えました。

いまや文学や思想は自分を売り込みたいだけの商売人たちや、実社会に適応できない人のルサンチマンを解消する道具に成り下がっています。

出版社は利益を上げるために、そのような人間を利用するだけで、文化を保存する気概すらありません。

 

人間の普遍性を放棄したからといって、戦争がなくなることはありませんでした。

動員の論理には僕も反対ですが、それに繋がる危険性を理由として、

普遍的な《人間》の価値は放棄されるべきものではないと思います。

そのためには本作をいかに「正しく」読むかが重要になってきます。

サン=テグジュペリは共同体のために死ぬことを価値としたわけではありません。

個人を超越した普遍的な《人間》の尊厳を見直すことを訴えているのです。

 

私は戦う。《人間》のために。《人間》の敵に抗して。だが同時に、自分自身にも抗して。

 

サン=テグジュペリが最後に「自分自身にも抗して」と書いたことの意味を、われわれは考える必要があります。

安直な個人の自己満足を超えるものが存在しなくなった人類を、彼は「白蟻の群れ」と書きました。

われわれが「白蟻」にならないためには、まず何よりも自分自身に抵抗する必要があるのではないでしょうか。

 

 

 

評価:
アントワーヌ・ド サン=テグジュペリ
光文社
¥ 950
(2018-03-07)

『文選 詩篇 (一)』 (岩波文庫) 川合 康三 他訳注

  • 2018.03.24 Saturday
  • 22:18

『文選 詩篇 (一)』 (岩波文庫)

  川合 康三・富永 一登・釜谷 武志 他訳注

 

   ⭐⭐⭐⭐⭐

   中国古典文学の規範となった『文選』が文庫で読める

 

 

『文選』は中国南北朝時代に興った梁の蕭統(昭明太子)が526年から531年にかけて編纂した総集(文学アンソロジー)です。

戦国時代から秦・漢・魏・晋・南朝宋・南斉・梁にわたって、規範となるべき詩が集められています。

もとは全30巻であったものが、唐の李善によって60巻に分けられました。

そのうち詩篇にあたる19巻から30巻までを、岩波文庫版では全6冊で刊行していくようです。

 

本書には収録されていませんが、当時の文学ジャンルは広範で、

公的な言辞や実用的な文書である命令書や意見書も『文選』には収録されています。

実用的な文章にも文学的修辞がほどこされたりする中国では、

文学が政治的実用性と深く結びついていたのですが、『文選』の編纂からもその姿勢がうかがえます。

そのような文学的伝統を考えれば、漢詩をただ美的に享受する読み方は、

近代的な詩概念に毒された表面的な理解でしかないかが明らかになります。

(詩が物質的で人間不在だとか得意気に言う人は、ツラばかりデカい不勉強なオタクだということです)

 

『文選』はそれ以後の総集を編纂する基準として利用され、唐では科挙の試験勉強に必須のテキストとなります。

そうして盛唐期には確固とした地位を確立します。

杜甫が自分の詩の中で『文選』を褒めたたえていたことも、僕の印象に残っています。

北宋になって蘇軾が『文選』の批判を展開しますが、これも『文選』を権威化しすぎた人々への反発があったように思います。

蘇軾は昭明太子の編纂が無秩序で取捨選択も適切ではない、と手厳しいのですが、

音楽CDのベスト盤の収録曲に不満を持つ人は当然いるものです。

 

『文選』には屈原、宋玉などのビックネームに加えて、

刺客として秦の始皇帝暗殺を計った荊軻や、漢の高祖劉邦の詩と言われるものもあるのですが、

これらは本書には収録されていませんので、続刊に期待します。

本書の読みどころは唐以前の最高の詩人と名高い曹植の詩が6篇収録されていることです。

兄である魏の文帝(曹丕)との葛藤に苦しんだ曹植の姿が、切実さを湛えた詩句から浮かび上がってきます。

 

『文選』に詩が40篇も収録された南朝宋の謝霊運は「山水詩」と言われる叙景詩の元祖ですが、

謀反の嫌疑をかけられて最後には処刑される悲劇の運命を辿ります。

解説にも書かれていますが、彼は風景を純粋に美的な対象として描いてはいません。

汚濁にまみれた世の中から離れて、自然の中にあるべき真実を見出そうとしています。

 

西晋の左思も容姿にも恵まれない不遇な人物でしたが、

本書に収録されている彼の「詠史八首」は、自身の憤懣を美しい対句で表現しています。

(中国人の美意識を考えるときに、対という要素は欠かせません)

このように政治的に不遇な人物の思いを、漢詩によって社会に再回収する中国文化のあり方が、

可視化された現体制の評価を絶対化しがちな日本人と違い、

体制外の潜勢力を貪欲に掘り起こすことにつながっていると僕は思います。

 

中国は王朝の交代が頻繁であり、社会基盤に一神教の宗教もないため、

政治権力の相対性が文化の中にも刻み込まれています。

たとえ現体制において政治的に評価されなくても、政治体制より広範な「文化」によって回収され、

他の体制において花開く可能性をもつ潜勢力として記録に残されていくのです。

つまり、古代中国では文化が政治以上に包括的なものとして理解されていたのです。

(たとえ異民族が王朝を建てても、漢民族の文化システムが異民族体制までも吸収したことを考えればその威力は歴然です)

残念ながら日本には既存体制のイデオロギーを超える「文化」があったとは思えません。

だから、レベルが低かろうが世に流通すれば優れている(売れてる=正義)という短絡的発想が信じられてしまうのです。

 

古代日本人も学んだ中国古典を読むことは、日本のルーツを訪ねることでもあります。

そこには古代日本人が吸収しなかった要素があるはずなので、

それを再回収して現代に活かすこともできるのではないでしょうか。

 

 

 

『サミュエル・ベケット』 (白水Uブックス) 高橋 康也 著

  • 2018.03.18 Sunday
  • 08:25

『サミュエル・ベケット』 (白水Uブックス)

  高橋 康也 著

 

   ⭐⭐⭐⭐

   「道化」というキーワードでベケットを読む

 

 

『ゴドーを待ちながら』などサミュエル・ベケットの作品を多く翻訳している高橋康也が、

ベケットの半生と主な作品を時系列に沿って網羅的に解説した本です。

作品読解から文学的テーマに踏み込む凝縮された内容のわりに、平易で読みやすく書かれています。

1971年出版の本を底本としていますので、本文は約半世紀前に書かれていたものです。

加えて高橋によるベケット追悼文、詩人の吉岡実のエッセイ、G・ドゥルーズ翻訳者の宇野邦一の解説が収録されています。

 

代表作『ゴドーを待ちながら』は「不条理演劇」などと言われたりしますが、

高橋はベケットを「道化」と位置付けて、不条理の表現としてのおかしさと笑いに注目しています。

「道化芝居とはいえぬ道化芝居、道化とはいえぬ道化」というベケット的な名辞矛盾を用いて、

通常言われる道化とはかけ離れたところで、かえって道化性があらわになるベケットの主人公たちを理解しようと努めています。

(道化といっても太宰治のようなコンプレックスの反映とは全く違う次元の話なのでご注意を)

 

本書では若きベケットとその師であるJ・ジョイスとの関係について詳しく語られています。

2人ともアイルランド出身でありながら、祖国に背を向けた亡命者です。

ジョイスの饒舌、ベケットの寡黙と表現の方向性としては真逆にあたる両者ですが、

高橋は両者がともに自らの世界を「終わりなき煉獄」と捉えていたことを指摘します。

ベケットはジョイスの描く「煉獄」を「絶対者の絶対的不在」による善悪などの対立関係の混濁と見ているのですが、

このような相対化の極北であるポストモダン的状況を、多くの日本人が苦悩することもなくスノッブに享楽できてしまうことを、

僕は無視することができないのです。

 

「煉獄」を「煉獄」であると自覚するには、「絶対者」の存在の痕跡を感じることができなくてはなりません。

しかし「絶対者の不在」が歴史的に常態化している国では、それのどこが問題なのか、ということにしかなりません。

実際に生きている場所が「煉獄」であったとしても、外の世界を知らなければそこを天国と錯覚することは可能です。

つまり、ドゥルーズがしたようにベケットをポストモダン的な文学として扱ったとしても、

ポストモダニズムを消費資本主義的享楽としてしか受容しなかった日本人にとって、大した文学的意義はないということです。

 

日本人を相手にベケットを「道化」として語ることは、

「煉獄」が「煉獄」であることもわからない享楽主義者たちの誤解を深める結果になるのではないかと危惧します。

高橋が本稿を執筆した時代はおそらくそうではなかったのでしょうが、現代では「道化」という表現が適切なのか難しいところだと感じました。

(そのため「道化とはいえぬ道化」という表現を引用したのです)

 

僕がベケットを「道化」と表現することに抵抗を感じる理由はもうひとつあります。

高橋はベケットをデカルト的二元論において把握し、肉体の唾棄と精神の解放を目指していることを説明しています。

その説明に異論はありませんが、「道化」とはなにより身体的な存在でなければいけない気がするのです。

身体を捨てた純粋精神とは、観念的存在であって、地上に居場所はありません。

いったい地上を離れたところに存在する「道化」など想像できるものでしょうか?

高橋が選んだ「道化」という言葉はまだまだ地上的です。

しかし、ベケットは地上から離れた「聖なるもの」への野望を抱いていたのではないでしょうか。

「ベケットの最も深い意味における宗教性、彼の道化の逆説的な聖性をぼくは疑うことができない」

と高橋も本書で述べています。

その「聖なるもの」への志向が、ドゥルーズ的な観念論によって安直なメタ化へと変換され、

あの〈フランス現代思想〉という、資本主義と共謀した単なるメタゲームへと堕落していったのです。

当然そこにあるのは聖なる神の残滓ではなく、運動そのものを自己目的化した資本の運動(メタに立つためだけにメタに立つ運動)だけです。

 

本書の解説を宇野邦一が書いていることでもわかるように、

高橋の読解はドゥルーズ的なポストモダニズムと呼応した内容になっています。

高橋は『ワット』を解説した部分で、ノット氏の邸宅でのワットの体験を、

「何も起きない」いや、「無であることが起きる」と書き、

それが「意味論的」崩壊の状況、認識の不可能性と解釈しています。

このようなnotつまり否定性を無意味や不可知性として前景化するのがポストモダニズムだと言えるでしょう。

「無」を持ち出せば人間的意味の外に立てる、つまり〈フランス現代思想〉とは人間のメタに立つことを目的とした「脱自」の思想なのです。

 

ドゥルーズの失敗を繰り返さないために、

そろそろベケットの偉大さを認めつつも、あえて批判的に読む必要もあるのではないでしょうか。

ベケットの主人公たちは身体を失い、自己を剥奪され、脱自的な「無」へと突き進んでいきます。

ベケット自身も母語ではない言語を用いた単純な文章によって、言語の豊かさを剥奪していきます。

高橋はノット氏やゴドーに象徴される「無」を、ウィトゲンシュタインの『論理哲学論考』に似ているとしていますが、

ウィトゲンシュタインが自殺する運命となったのは、彼の家系だけが原因ではないと思います。

「無」へと至る自己剥奪が「聖なるもの」を実現すると考えてしまうと、

人間とは無縁な観念論へと道を開き、果ては文学の自殺へと陥ります。

ドゥルーズに代表される〈フランス現代思想〉の反人間主義の延長にある思弁的実在論が、

人間不在の世界を観念化しようと躍起になるのも、「無」へと至るまでの自己剥奪の徹底(パラノイア!)によるものです。

 

僕がベケットの人物たちに心惹かれるのは、

人間誰しも自己を生きられるわけではない、ということからきています。

自己を剥奪されて、自分が自分で無いような「よそよそしい存在」に思えたとしても、

それでも生き続けなければならないときもあるのです。

ベケットはそんな悲しくも普遍的な人間の「原型」(もしくは原罪)を、僕たちの前に提示している、と僕には思えるのです。

 

ベケットは自ら望んで自己を剥奪し、自己の外に出ようとしているのではありません。

自己を奪われた人間こそが現代の人間であることを示しているのです。

(このあたりをユダヤ的に解釈することは可能ですが、広く「現代」と考えてみるべきでしょう)

『ゴドーを待ちながら』を解説する高橋は、それを演劇的「無」を体現したものと捉え、

その「無」が人間の運命であり生の原型であるために、

作中で「何の葛藤も解決もない」必然的な結果として描かれていることを指摘してこう述べます。

 

しかしぼくたちは、このような否定的ないないづくしがその極点において肯定的な豊饒に逆転することを見失ってはならない。そこに『ゴドーを待ちながら』の奇蹟的としか言いようのない勝利があるのだから。

 

この解釈は間違っていませんが、現代においてはこの解釈自体が逆転させられる必要があります。

つまり、肯定的な逆転を考えすぎて否定的な苦しみを見失ってはならない、ということです。

ベケット自身は亡命(ディアスポラ)の苦悩においてこのような作品を書いていたわけですが、

消費資本主義的享楽を生きて母国に依存するような連中が、このような逆転をやすやすと果たしていることに目を光らせる必要があります。

(天皇陛下即位20年の愛国イベントにエグザイルという名前のグループが呼ばれたことが、日本のポストモダンを象徴しています)

ベケットを逆回転させたものが〈俗流フランス現代思想〉であり、現状のナルシス日本です。

あらゆる理想的な営みを否定的に捉え、現状を必然や運命と捉えて、「何の葛藤も解決もない」ぬるい生を望む人がいかに多いことか。

(安倍さん以外に首相をやらせる人がいない、とか日本人以外には意味不明の発言でしょう)

彼らはゴドーなど存在しないかもね、とすでに割り切っていて、

苦しんで待つだけの意味も感じられないため、ただスマホで「気散じ」をするだけの人生です。

それをこれっぽっちも「煉獄」だと感じることができません。

 

ゴドーを待つ苦悩を知らない人間にベケット作品も〈フランス現代思想〉もまったく意味がありません。

彼らは「何の葛藤も解決もない」自分の生を知的ぶって肯定するために、それを自己弁護として利用するだけなのです。

(そのために自らが迫害を受けているかのように被害者ぶるのが、日本的ポストモダニズムの成れの果てです)

 

いつまでもゴドーは現れない、

それでも僕たちはゴドーを待って苦悩するべきなのです。

一神教から遠く離れた国では、

詩的な自己剥奪など今やスマホによる暇つぶしと大差がなくなりました。

今や文学に詩は必要ありません、真の亡命者となるほどの苦悩や葛藤こそが必要なのです。

 

 

 

『なぜ世界は存在しないのか』(マルクス・ガブリエル) Amazonレビューへの佐野波布一コメント

  • 2018.03.14 Wednesday
  • 22:50

 『なぜ世界は存在しないのか』(マルクス・ガブリエル)

 Amazonレビューへの佐野波布一コメント

 

 

 

 

 

どうも、佐野波布一と申します。

 

マルクス・ガブリエルの『なぜ世界は存在しないのか』について、どこぞのフランス現代思想学者が解説している文章を目にしましたが、

僕が予想していた通り、自分の立場と対立しない内容だけに触れるという、

どこぞの省庁と似たような手口を使っています。

 

具体的に言えば、意味を中心とした人間主義であることを明確にすることは避けています。

科学一元論を批判する反ファシズム思想だとか、ひとつの特権的な「意味の場」の覇権を拒否しているとか書いているのですが、

これもかなり欺瞞に満ちた内容と言えます。

 

科学一元論を批判しているのはその通りですが、同時に人間不在の思弁的実在論も批判しているのに、

そこをカメレオン学者はスルーして触れません。

思弁的実在論の代弁をしてきた自分に不利な事実は削除するわけです。

また、ひとつの特権的な「意味の場」の覇権を拒否しているという解説は誤読でしかありません。

ガブリエルが拒否する特権的な包括的な場は「世界」としか書かれてはいません。

「世界」が存在しないことで「意味の場」が成立するとガブリエルは書いているわけですから、

ひとつの覇権的な場は「意味の場」になるはずがないのです。

(もちろんガブリエルもそんな表現はしていません)

これは誤読であるか、そうでなければ内容の身勝手な改ざんと言えるでしょう。

 

彼が書いているひとつの特権的な意味の場が存在しない、という反ファシズムの思想とは、

まったくもってガブリエルの著書の内容ではなく、

これまで〈フランス現代思想〉がさんざん垂れ流してきた言説でしかありません。

もし本当にガブリエルがこんなことを言っているのだとしたら、まったく新しくありません。

いや、本当に自分に都合がいいように「書き換え」をするものだと、呆れ果てました。

この人には学者としての良心など存在しないのでしょうか。

 

まるでガブリエルが意味を批判しているかのような「書き換え」は、

あまりにガブリエルとは逆方向の主張になるので、もし誤読でないのなら、彼の一般読者を騙そうとする不誠実な態度と考えるしかありません。

僕の好き嫌いなど関係なく、事実を捻じ曲げるような内容を流通させる学者を日本ではなぜ問題だと考えないのでしょうか。

いや、国の省庁が事実を書き換えて平気なのですから、学者だって平気で書き換えを行うのがこの国なのでしょう。

 

しかし、本書のレビューでも確認したように、

僕はずいぶん前から彼らがこのような「読み換え」をすることは予想していたので、

日本的な自己保身を優先する文化にどっぷりつかっている人たちが、

西洋思想を「宣伝」していることがいかにお笑いな事態であるかの良い証拠になると思います。

 

 

 

『炎と怒り──トランプ政権の内幕』(早川書房) マイケル・ウォルフ 著

  • 2018.03.14 Wednesday
  • 09:47

『炎と怒り──トランプ政権の内幕』(早川書房)

 マイケル・ウォルフ 著/関根 光宏・藤田 美菜子 訳

 

   ⭐⭐

   自らを暴露しまくるトランプに暴露本は無用

 

 

本書はドナルド・トランプ政権の中心人物たちの困った人間模様を描き出した、いわゆる暴露本です。

著者のウォルフはメディア王のルパート・マードックの評伝などで知られるジャーナリストだそうです。

(そういえばマードックは本書でも何度か登場しています)

リベラル派や著名人に嫌われているトランプ大統領を批判した本なので、

規範的な視点からトランプ政権のお粗末さを嘆くようなスタンスなのかと思いましたが、

読んでみると、ウォルフがそのお瑣末さを面白がって書いているような印象を受けました。

トランプ政権の内幕を書けば金になる、というトランプに負けず劣らずの野心を感じます。

 

ウォルフは最初の章でトランプ陣営が大統領選に勝つとは当日まで思っていなかったと書いています。

 

トランプと側近がもくろんでいたのは、自分たち自身は何一つ変わることなく、ただトランプが大統領になりかけたという事実からできるだけ利益を得ることだった。生き方を改める必要もなければ、考え方を変える必要もない。自分たちはありのままでいい。なぜなら自分たちが勝つわけがないのだから。

 

トランプにとっては「敗北こそが勝利だった」と言い切るウォルフは、

勝利の瞬間、トランプが幽霊を見たような顔をし、メラニア夫人が喜びとは別の涙を流した、と述べています。

 

ここで描かれた情景が僕にはあまり腑に落ちませんでした。

たしかに事前のメディアの予想ではトランプは敗色濃厚という見込みであったと思うのですが、

直前までトランプは劣勢を跳ね返す粘り腰を見せていたはずで、

本当にトランプ本人が負けを望んでいたら簡単にそうなったように思うのです。

このあたり、必ずしも事実ではなく、反トランプの人々の実感にうまく合わせるような書き方をしている気がしました。

 

本書で描かれるトランプ像にはあまり驚くことはありません。

「トランプには良心のやましさという感覚がない」

「トランプはごくごく基本的なレベルの事実すら無視する」

「トランプには計画を立案する力もなければ、組織をまとめる力もない。集中力もなければ、頭を切り替えることもできない」

ウォルフは相当にボロクソ言っていますが、読者は特に違和感なく納得できるのではないでしょうか。

むしろ誰が見ても秀でた能力を感じない人物が、なぜ大統領になっているのかが謎なのですが、

トランプの実像を描いてもその答は得ることができないのです。

それより面白かったのは、トランプとメラニア夫人の夫婦生活についてや、

娘のイヴァンカがテレビ番組で父の髪型を笑いものにした話などでした。

 

この本を最後までキッチリと読み通す人はあまり多くないのではないかと推測します。

途中からスティーヴ・バノンとトランプの娘夫婦の権力争いを描くことに重心が移っていき、

肝心のトランプの影が薄くなっているからです。

バノンはボブ・マーサーという右派の資産家の後押しで「ブライトバード」という保守系メディアを経営し、

トランプの首席戦略官に就任し、大いなる成り上がりを果たした人物です。

ウォルフが「スティーヴ・バノンほどホワイトハウスに似つかわしくない人物はそういない」と書くのは、

バノンが63歳という高齢でありながら政治未経験者だという事実が影響しています。

彼はイヴァンカ・トランプとその夫ジャレッド・クシュナーをまとめて「ジャーヴァンカ」と嘲笑的に呼び、

クシュナーとの間で意見が対立すると、リーク合戦を繰り広げて互いの足を引っ張ります。

 

金を追い求めて挫折し続けるバノンの経歴も興味深かったのですが、

そんなバノンが保守系メディアで成功したのは、

リベラル系に比べて保守系メディアの「参入障壁が低いというメリット」があったという指摘に納得しました。

どこの国であれ、保守系メディアに登場する人物が社会への怨念を抱えていたりするのには、

そのような背景があるのかもしれません。

 

ウォルフが途中からバノンの視点に近接し、バノンの言葉や考えを生々しく述べるにつれ、

本書の主役はトランプではなくバノンなのではないかと感じました。

実際、本書はトランプ政権の誕生からジョン・ケリーが首席補佐官に任命され、バノンが首席戦略官を退任するまでを扱っています。

池上彰の解説にバノンが取材に全面協力したと書いているので、バノンの言に依存した結果だとわかりました。

そうなると、本書の内容にバノン的バイアスが反映していてもおかしくはありません。

 

本書の記述でなるほどと思ったところがあります。

ウォルフはトランプ政権をこう分析しています。

 

トランプ政権の矛盾は、他の何よりもイデオロギーに突き動かされた政権であると同時に、ほとんどイデオロギーのない政権でもあるということだ。(中略) ゲームで優位に立つより重要な目的など、まったくありそうになかった。

 

トランプは時としてリベラルに激しい批難を浴びせますが、民主党的なスタンスを取ることもあります。

トランプは「すべてを個人的にとらえる」人であり、頭には自分の勝利しかないのです。

(だから大統領選に負けるつもりだったとは僕には思えないのです)

 

「アメリカは、こういう人間を大統領に選んたのだ」とは解説の池上彰の言葉ですが、

日本もそれほど人のことは言えないように思います。

聖人君子をトップに抱くより、等身大で自分の分身のような人物こそが自分たちを代表するべきだと国民が考えるようになれば、

国のトップが凡庸な人になるのも驚くことではないように思います。

 

 

 

評価:
マイケル ウォルフ,Michael Wolff
早川書房
¥ 1,944
(2018-02-23)

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