『蒙古襲来と神風 - 中世の対外戦争の真実』 (中公新書) 服部 英雄 著

  • 2017.11.27 Monday
  • 15:56

『蒙古襲来と神風 - 中世の対外戦争の真実』  (中公新書)

  服部 英雄 著

 

   ⭐⭐⭐⭐⭐

   権威に挑む気骨ある研究者に拍手を送りたい

 

 

本書は蒙古襲来の定説に挑む気骨ある研究者の本です。
最大のポイントは日本史の教科書でも書かれている、
蒙古が一夜にして台風で全滅したという「神風史観」の検証です。

服部はあとがきで「最近は学界の定説を疑問視すること、
通説を実証的に否定していくことが自分の使命ではないか、
と思うようになった」と書いているのですが、
それというのも、ろくに検証もせずに無批判な孫引きをする研究が多く、
教科書にまで書いてあったりするからなのだそうです。

定説をひっくり返すのがいかに大変かは、素人でも想像がつきます。
(Amazonレビューですら権威に批判的だと風当たりが強かったりします)
こと歴史に関しては事実をめぐる争いなので、資料による実証しか手がありません。
そのため、本書の大部分は資料による実証的な事実追求になっています。
第5章はまるまる全部が、竹崎季長が描かせた『蒙古襲来絵詞』の検証に当てられています。
読んでいて、かなり専門的、学術的な内容という印象を受けましたが、
僕はたかぎ七彦のマンガ『アンゴルモア 元寇合戦記 (1) (カドカワコミックス・エース)』で元寇に興味を抱いていたので、
いろいろ面白くて一気に読んでしまいました。

クビライの元軍(蒙古・高麗軍)は1274年の文永の役と1281年の弘安の役の二度攻めてきました。
服部はまず文永の役に来襲した元軍の実際の戦力を考察します。
これまでは九〇〇艘4万人が定説だったようなのですが、服部は三〇〇艘3万人が妥当ではないか、と述べます。
それから、文永の役は台風によって1日で終わったわけではない、と通説を覆します。
嵐は吹くには吹いたが時期的に台風ではないし、それで蒙古・高麗軍が撤退したのでもなく、
実際は戦いの末に日本軍が敵を退けたとして、

 

すなわち神風史観の骨格をなす、文永の役における、嵐によって一夜で殲滅なるものは、幻想・虚像にすぎない。けれども信じられやすかった。

 

と結論づけます。

弘安の役については、さらに詳細な検証が行われます。
驚いたことに、これまで不動の定説とされていた池内宏の説というのが、1931年(満州事変の年!)なのだそうです。
服部はにおわせるだけなのですが、おそらく「神風史観」なるものは、
皇国史観の亜種として侵し難い聖域となっていたのでしょう。
(服部が終章で神風特攻隊の美化を批判につなげるのも、そう考えると唐突には感じません)
第三章はこの池内説に対する反証がメインになります。

僕は池内の『元冦の新研究』を読んでいないので、一方の言い分しか聞いていないわけですが、
それでも服部の主張には大いに説得力がありました。

たとえば元軍(実質は東路軍=高麗軍と江南軍=降伏南宋軍)の進軍日程について、
池内説では高麗から対馬まで19日もかかったことになっています。
通信使の使者は1日で必ず来るだけに、疑問なく受け入れるのが難しいのは確かです。
服部は出発した日のうちに対馬に到着したと考えています。
戦争なのですから、ダラダラしているのは不自然ですよね。

また、『高麗史節要』にある「日本世界村大明浦」を池内は対馬としているのですが、
80年前までは常識であった志賀島と考えるべきだという見方も納得です。
どうも対馬説にはたいした根拠もなく、池内説の権威によってまかり通ってきたようなのです。

元軍に台風の被害はあったのですが、それで全滅したというのはまちがいで、
台風後にも死闘がくり広げられたというのが服部の考えです。
では神風という発想はどこから来たのでしょうか。
服部はこう述べています。

 

さて、みてきた通り、当事者誰一人、神の戦いとはひと言もいっていない。神の戦いで決着がついたのなら、嵐が吹いた一日には終戦になるはずだが、彼ら日本軍はなおも戦いつづけ、それも多くの参戦者が負傷するほど、激しい戦いを強いられた。一方の貴族たちは、一日夜に決者がついたとし、神のおかげだと手放しで喜んでいる。

 

現場にいない貴族たちが神のおかげと騒いでいたのです。
このように服部が定説を実証的に覆していく作業はスリリングです。

このあと、海底遺跡や前述した『蒙古襲来絵詞』の検証をしていきます。
ここでは、どうやって信頼できる記述と後世の創作とを区別するのか、
歴史学の専門的な手続きを知ることもできます。
蒙古襲来後の日元関係にも触れます。

みんなが従っている定説なんだから正しいだろう、と「思考停止」をしてしまう人が多いのは、
学者の世界でも同じようです。
「通説=多数派を批判すれば、たちまち一人となる」と服部はもらしていますが、
たとえ孤独になっても正しいことは主張する、という気概には見習うべきものを感じます。

 

 

 

『親鸞と日本主義』 (新潮選書) 中島 岳志 著

  • 2017.11.25 Saturday
  • 10:35

『親鸞と日本主義』  (新潮選書)

  中島 岳志 著 

 

   ⭐⭐⭐

   国家の枠を超えられない日本の宗教

 

 

浄土真宗には「戦時教学」として国体と一体化していった過去があります。
衆生を救済する阿弥陀如来の本願にすがる絶対他力が浄土真宗の教義の核だと僕は理解していますが、
その阿弥陀如来と現人神の天皇とが同一であると主張したのです。

僕がつまずくのは、国境を超える世界宗教であるはずの仏教が、
近代日本ナショナリズムという国家の枠に吸収されてしまう、という逆転です。
大小の関係がおかしいのではないか、と普通なら誰でも思うでしょう。
ベースボールの神様は長嶋茂雄だと言うようなものですから。

この逆転について中島岳志は残念ながら答えようとしません。
彼が保守思想に興味が強いからなのか、
親鸞と本居宣長の国学思想との共通性は語れても、ナショナリズムの本質には踏み込めないようです。
(ちなみに中島は左翼は理性を過信するが、保守思想は理性の限界を認めるとか言っていますが、
ある程度の知性がある人は、イデオロギーに関わらず誰しも理性の限界を認めていると思いますよ。
理性を嫌悪する〈思考停止人間〉にお墨付きを与えるようなインチキくさい定義はやめてほしいものです。
というか、そういう定義をしているのって保守の人だけですよね)

僕は中島の本を初めて読んだのですが、
大学教授とは思えないほど「読ませる」文章でした。
京都学派など知識人の排除を目的とした『原理日本』のメンバーたちや、
倉田百三や暁烏敏など、批判対象のはずの人物に小説を読んでいるように迫っていきます。
その筆力には非常に感心しますが、
大部分が日本主義に走った人物に寄り添うドキュメントになっているため、
中島が彼らの思想的問題を批判しようとしているのか不明瞭になっている気がしました。

僕は国学を含む日本主義の問題はナルシシズムとして考える必要があると思っています。
部分と全体の逆転が起こるのは、その根源にナルシシズムがあるからです。

たとえば中島は『原理日本』の蓑田胸喜の親鸞論の特徴を、
「東洋哲学やインド仏教への否定的態度にある」と述べています。
厭世的で現世否定的なインド仏教を、蓑田は「外来」思想として「日本的精神の外部」に放逐します。
挙句には釈迦を否定して、親鸞がそれを凌駕したと主張します。
蓑田は「現世の絶対的肯定」を重視し、ナルシシズムを傷つける否定性を排除しようとしたのです。
この点においては、たしかに「外来」思想を「さかしら」として排除したがった本居宣長の国学と共通します。

蓑田の親鸞論には僕が前述した逆転が見られます。
世界仏教の亜流でしかない親鸞思想が世界仏教を否定するという逆転です。
この逆転を考えるには、当時の政治的文脈を無視するわけにはいきません。
当時は西洋帝国主義の亜流でしかない大日本帝国が、西洋列強を否定する無謀に酔いしれる時流にあったのです。
その意味で浄土真宗は大日本帝国の等価物となりえたわけです。
蓑田の親鸞論はナショナリズムが宗教のかたちで現れたものと考えられると思います。
しかし、中島の思索はこういうところには至りません。

ちなみに日本の仏教受容には歴史的に現世肯定的な要素があったことは、
仏教学者の中村元も指摘しています。
閉鎖環境の中でナルシシズムを充溢させることを喜びとする性向は、
外的現実を無化するために理性や反省を嫌悪し、
ありのままの現在を肯定する「思考停止」を求めることになります。
結局、そこにあるのは権威への盲目的な追随です。
日本ナショナリズムに〈思考停止による一体化〉への欲望が含まれていることは、もっと指摘されるべき問題だと思います。

倉田百三のくだりでも面白いことが書いてあります。
仏教学者の末木文美士が『出家とその弟子』を「キリスト教的である」と論じ、中島も共感していることです。
そうなると、日本の近代化のあり方こそが問題であって、
純粋に浄土真宗や親鸞の問題ではないのではないか、と感じます。

そのあたりは暁烏敏についての記述にも見られます。
中島は本地垂迹説を退けた暁烏が「宗門人」としての立場より「日本国民」としての立場を優先させたと述べます。
そこには国家の前では宗教などただの「手段」でしかない、というような
そんな「近代的」日本人の姿が現れてはいないでしょうか。

暁烏は日本を「阿弥陀仏の浄土」だと偽り、日本に死は存在しないとまで言っています。
そして日本で不満を言う人間は恥を知れと一喝し、「偉大な皇国の前に跪け」と〈思考停止による一体化〉を求めます。

日本の保守傾向の中にナルシシズムと「思考停止」があることを指摘せずに「批評」たりえるとは思えません。
自己のナルシシズムが原動力であるかぎり、自己の所属する最大組織に同一化する以上の普遍性は成立させられませんし、
その組織の普遍性は自己の存在を基盤とするわけですから、
部分が全体に一致するだけでなく、部分が全体に優越するという逆転を生むのです。

序章で中島は親鸞の思想の中に日本主義と結びつく危うさがあるのではないか、
という問いを投げかけていますが、
〈俗流フランス現代思想〉にすらその要素はあると僕は思っています。
用心すべきは特定の思想ではなく、ナルシシズムと〈思考停止による一体化〉を求めるもの全てではないでしょうか。

 

 

 

評価:
中島岳志
新潮社
¥ 1,512
(2017-08-25)
コメント:『親鸞と日本主義』 (新潮選書) 中島 岳志 著

『アウグスティヌス――「心」の哲学者』 (岩波新書) 出村 和彦 著

  • 2017.11.23 Thursday
  • 10:28

『アウグスティヌス――「心」の哲学者』 (岩波新書)

  出村 和彦 著 

 

   ⭐⭐⭐⭐

   アウグスティヌスの生涯を丁寧に描く

 

 

ローマ帝国末期にキリスト教と寄り添いつつ思想を探求したアウグスティヌスは、
76歳で生涯を閉じるまで、『告白』『神の国』をはじめ膨大な著作を書き残しました。
本書はアウグスティヌスの著作に分け入るよりも、生涯の様々な局面で彼がどのように思索を深めていったのかを重視し、
自己の内面に向き合う「心」の哲学者としての側面を取り上げています。

僕はアウグスティヌス関連の書物を初めて手に取ったのですが、
伝記的な面の強い本書を読み通すのに苦労はしませんでした。
キリスト教についての特別な知識も必要としないので、初学者も気軽に読める本だと感じました。

313年のミラノ勅令によってローマ帝国でキリスト教が公認されて間もない354年、
北アフリカのタガステでアウグスティヌスは誕生しました。
キリスト教の原罪論や予定説、三位一体について考察したアウグスティヌスがアフリカ出身というのも意外でしたが、
もともとは当時北アフリカに広まっていたマニ教の信徒であったというのはもっと意外でした。

マニ教徒だったアウグスティヌスがいかにしてキリスト教徒となったか、というのが前半期のドラマになります。
出世の階段を登り、ローマに変わり帝都となったミラノへと出たアウグスティヌスは、
カトリック司教のアンブロシウスと出会います。
アンブロシウスは創造主の被造物は善であるため、悪は「善の欠如」と教えます。
マニ教は善悪二元論を基本とするので、
悪をなす原因が自由意志にあるというアンブロシウスの教えを、アウグスティヌスはすぐには理解できませんでした。

出村はアウグスティヌスがマニ教から脱して自由意志について考察する「心」の哲学に赴くきっかけとして、
出世のため良家の息女と結婚することで、15年連れ添った女性との離別の体験を紹介します。
この女性のエピソードは『告白』にも記されているようです。

それから新プラトン派とされるプロティノスの書物を読むことで、
自身の内奥すなわち「心」へと向かい、根源の光と出会う「光の体験」を果たします。
そんなある日、中庭での体験を経てパウロの書を読んだアウグスティヌスは、神のことばが心に刺さるように感じられ、
キリスト教へと回心していくのです。

その後、修辞学教授を辞したアウグスティヌスはカッシキアクムの別荘で学問生活に入り、
母の死を経ていったんタガステへと帰った後、ヒッポ教会の司教となり、修道院生活をはじめます。

本書の後半はアウグスティヌスの執筆生活に焦点が移ります。
『告白』についてもわかりやすく触れていきます。
出村によると、アウグスティヌスは私を「考える」(コギト)働きとして捉えていて、
のちのデカルトにも通じていくとします。
しかし、デカルトのように自己を確固とした実体としてよりも、
「考える」(コギト)を原義である「集める」として解釈し、
「思考を集中と分散との対の動きのなかにあるものと位置づけ」、
いつでも自身の乱れる思いとして現れる、と説明します。
なかなか簡潔で明快な解説だと感じました。

『三位一体』という書に対する出村の説明もわかりやすいです。
「愛する」という体験は、愛す人、愛される相手、両者を結ぶ愛、の三つの要素で一つの経験が構成されます。
それは人間の精神に「三一性」が現れていることを示していて、
「神の似像」である人間と神との関係を示すものとアウグスティヌスは考えている、と述べます。

著作『神の国』の説明にも興味深いところがありました。
アウグスティヌスによると、人間の愛のあり方が「神の国」と「地の国」という二種類の集団を作るそうです。
自分を軽蔑し神への愛へと至る「神の国」と自己愛によって神を軽蔑する「地の国」。
出村はこの対立をキリスト教界とローマ帝国と一致させるべきではなく、謙虚と高慢の対立だとします。
アウグスティヌスはローマ帝国がヴァンダル族の攻撃を受ける中で亡くなりました。
戦後日本の黄昏である現代がナルシシズムの暴走する社会になっていることを考えると、
謙虚ということがどれだけ重要であるかに思いが及びます。

終章にはアウグスティヌスの思想の後世への影響がまとめられています。
新書としてもそれほどボリュームのある本ではありませんが、内容は濃いと感じました。

 

 

 

評価:
出村 和彦
岩波書店
¥ 821
(2017-10-21)
コメント:『アウグスティヌス――「心」の哲学者』 (岩波新書) 出村 和彦 著

『魔法の丘』 (思潮社) 暁方 ミセイ 著

  • 2017.11.22 Wednesday
  • 21:55

『魔法の丘』  (思潮社)

  暁方 ミセイ 著

 

   ⭐⭐

   思考を捨てて感覚を純化すれば詩になるという発想は文学的ではない

 

 

この詩集を読んで誰でも感じることは、とにかく色を語りすぎるということだ。
そのため、感覚といっても圧倒的に視覚がその場所を占めている。
暁方は世界を色にしてしまう遠い光源をメタな存在として提示しつつ、
自らは時間の隠喩である透明な風や雨として、流れ去っていくことを望んでいる。

これは一見、感覚による自然(世界)との一体化をうたっているかのように見える。
しかし、世界を無害な色彩として平板化し、時間へと一体化することは、音楽の世界でしかない。
要するに暁方の詩は文学の音楽に対する敗北である、と言って良い。
その意味では「巨眼」という詩においてエッセンスがすべて語られていることに気づく。

 生物の構成を覗き込むような
 雲の模様は
 わたしの認識できる
 ものの縮尺をずっと小さくしてしまって
 二相にわかたれた世界の間に
 光のたおやかな境界をはる
 すさまじい
 放射の音楽だ

このようなことが起こるのは、暁方が思考を嫌悪しているからである。
日本人に伝統的に見られるメンタリティと言っていいのかもしれないが、
このような傾向は最近では、ネットに精神的に依存して現実からメタ的に逃走する消費資本主義の精神として現れる。
その現れとして、暁方は何度も送電塔に想いを馳せる。

 黄色い電車
 その暗いゴムの匂いがする車中で
 高圧鉄塔の言葉を感じる
 それをありのまま書きとめようか
 (リーヒ、ビリラ、イリ、リイ、イイ、)
 それは自分のためでも誰かのためでもない
 ただの歌だからいい
                   「耳煩光波」

 白い鉄塔
 電気を送る
 空と空との間で鳴るもの、七本の
 送電線
              「ホームタウンの草の匂い」

ここでは電波が光との類似でとらえられている。
こうなるとイメージされるのはネットやスマホというメディアである。
暁方の詩(音楽)は彼女自身の感覚というよりも、電子メディア(死語)によってもたらされたものと受けとめざるをえない。

これは私たちの「日常」である。
日常を描いて詩となる場合もあろうが、それは人生の真実が見つけられるときではなかろうか。
そこには人生との苦闘のあとが感じられなくてはならない。
ただ逃げているだけなら、ドラッグをやればいいのである。

問題は暁方が思考を放棄していることである。
考えるのをやめて自然に任せるのは老荘思想のようではあるが、
そのような中国古典の世界と暁方が無縁なのは言うまでもない。

 頭の中のことなどはすっかり忘れてしまって
 かわりに感情の
 一番純粋に澄み切った音のようなものが
 血液の中から押し寄せ
                   「地点と肉体」

 なにもかもが人の経験とそれに対するけいべつ
 へ返されてしまう今日には
 吐き気のする怒りと悲しみの鮮やかな花も
 諦めなきゃ
                    「用水地」

直接には「経験」にまつわるネガティブな感情を嫌っているように見えるが、
それが思考の停滞を生む結果となるのは必然である。
「蒙味の緑」では「わたしは経験による推測を捨てて」
「見えない感覚領域」で「わけがわからないまま/幸福に思考は閉じる」とあり、
「わけがわからない」状態が思考の「幸福」と結びつけられている。

暁方が「肉体」と書いていても、思考が「不在」の中で語られた「肉体」は単なるメディアでしかない。
彼女の「肉体」を額面通りに受け取るほど、私は言葉を信じてはいない。

思索的=男性的、感覚的=女性的のようなステレオタイプで処理できてしまう詩はつまらない。
宮沢賢治ばかりでなく、エミリー・ディキンソンも参考にしてほしいものである。
女性の感性にビビって、この種の詩に甘い評価をするおじさん詩人も、
つまらぬステレオタイプを助長する原因のひとつである。

現実との格闘なき異世界願望は「おままごと」的なファンタジーにしかならない。
小説では村上春樹、思想では〈俗流フランス現代思想 〉がそのような方向に向かったが、
現代詩も同様の病弊から逃れられないのは、それが(私を含めた)「バブル以降世代の病気」だからであろう。

 

 

 

評価:
暁方 ミセイ
思潮社
¥ 2,160
(2017-11-16)

『君の彼方、見えない星』 (ハヤカワ文庫SF) ケイティ・カーン 著

  • 2017.11.22 Wednesday
  • 21:49

『君の彼方、見えない星』 (ハヤカワ文庫SF)

  ケイティ・カーン 著 

 

   ⭐⭐⭐⭐⭐

   思いのほかに深い味わいのある作品

 

 

事故で宇宙空間に恋人と二人きりで落ちていく。
宇宙服の酸素はそれぞれ90分しか残っていない。
そんな絶望的な状況でこの作品ははじまります。

その後は宇宙空間での二人の生存を模索する場面と、
二人が出会って宇宙に出るまでの過去の経緯とが、
交互に描かれていくことになります。

表紙のイラストがきれいな感じだし、
IT系に勤務していた女性のデビュー長編だというので、
情緒的なラブストーリーが展開するのかと思いましたが、
さすがに早川書房がSFに分類しただけあって、そんな生ぬるいものではありませんでした。

SF的な設定を紹介しておきますと、
アメリカと中東の核戦争後のヨーロッパが舞台となっています。
人類破滅の戦争に懲りたヨーロッパはユーロピアと名を変えて、
各地域(ヴォイヴォダと呼ばれる)を個人が一定期間で移動して回る「ローテーション」という制度を実行しています。
行き過ぎた個人主義とも言えるユーロピアでは、結婚は30代後半まで禁止されているのですが、
20代後半の主人公カップルはこの婚姻規定と衝突することになります。
(恋愛ドラマをヒットさせるには、わかりやすい障害の設定は欠かせませんね)

シャトルから放り出されて宇宙を漂うカリスとマックスの二人にどんな結末が訪れるのか、
その興味で読者はラストまで一気に読まされてしまうのですが、
この作品のドラマは若い二人の過去で展開されます。

個人が「移民」として土地を転々とする生活においては、
人と人との関係も表面的で一時的なものとなります。
ローテーションや婚姻規定などの制約によって、
若者は「愛する人といっしょにいてはいけないと考え、他者との関係はむなしい、実のないものばかり」
と感じ「魂を失いかけている」、とマックスがヴォイヴォダ代表団に訴える場面があるのですが、
このあたりがこの作品のテーマと深く関わっているように感じました。

ここを読んで、僕は著者がIT系勤務だったことから、
インターネット登場以降の社会をイメージしているのではないか、と感じたのですが、
直後に代表団の一人から、
「いまに始まったことじゃない! インターネットの登場以来そうなんだよ!」
というセリフがあったので、僕の勘もそう外れていない気がしました。
SFといっても現代の状況に重なる何かがあるから面白いのですよね。

ラストがどうなっているのかは、読んでいただきたいので書きません。
ただ、僕個人としてはリセット的な「選択」の問題に落とし込んでしまうのはあまり感心しませんでした。
こういう発想はむしろ消費文化的でネット的な表層にとどまるものでしかないと思います。
みなさんがどう読むのかも僕には興味深いところです。

 

 

 

評価:
ケイティ カーン
早川書房
¥ 994
(2017-11-07)
コメント:『君の彼方、見えない星』 (ハヤカワ文庫SF) ケイティ・カーン 著

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