『ウニはすごい バッタもすごい - デザインの生物学』 (中公新書) 本川 達雄 著

  • 2017.03.13 Monday
  • 09:42

『ウニはすごい バッタもすごい - デザインの生物学』

  (中公新書)

  本川 達雄 著 

   ⭐⭐⭐⭐

   サンゴやヒトデや貝などの動きの少ない生物が中心

 

 

心臓が1回打つ時間は動物によって違うため、
動物にはそれぞれの時間の感じ方があることを示した
『ゾウの時間 ネズミの時間』の本川達雄の著作です。

本書は生物のからだのつくりを生存戦略の面から説明します。
東工大の講義を元にしているようなのですが、
語り口は一般読者にもわかりやすくなっています。
専門的な説明はコラムとして別に掲載しているので、
そこまで詳しいことに興味がない人はそこを無視しても進められます。

第1章は刺胞動物門、イソギンチャクやサンゴの話です。
刺胞という針が時速60キロで発射されるメカニズムや、
サンゴ礁と褐虫藻という藻類の共生が語られます。

第2章は節足動物門、要するに昆虫です。
昆虫の骨の材料となる多糖類とタンパク質を合成したクチクラや、
羽を神経の指令なしに運動させるメカニズムなどが語られます。

第3章は軟体動物門、貝類やイカ、タコの話です。
ここでは貝殻がなぜラセンになるのか解き明かされます。
また、貝を開閉する筋肉であるキャッチ筋が取り上げられています。

第4、5章は棘皮動物門、ヒトデやウニ、ナマコの話です。
ヒトデなどが星形の五放射相称になる合理的な理由が示されます。
棘皮動物には脳のような中枢がなく、管足という器官が局所的に反射するのですが、
中枢統御は運動志向の動物、局所判断は動かない生物の特徴だというのは興味深い事実でした。

第6章は脊索動物門、ナメクジウオとかホヤがそうなのですが、
なじみが薄い動物すぎてイメージがしにくいのが難点でした。
ここでは群体を作る生物の戦略が合理的に説明されています。

第7章は脊椎動物亜門なので、魚類、両生類、爬虫類、哺乳類となじみのある動物です。
一気にまとめられている感じで、ここはわりと退屈でした。

説明もわかりやすく、サクサク読み進められるのですが、
わりと動きの少ないマイナーな動物が中心のため、
どの程度その動物に興味が持てるかが内容理解に影響しそうです。
僕の場合、イメージしにくい動物についての説明は、読んでも流れていってしまう感じでした。

 

 

 

『終わりなき対話 I 複数性の言葉 (エクリチュールの言葉)』 (筑摩書房) モーリス・ブランショ 著

  • 2017.03.12 Sunday
  • 09:07

『終わりなき対話 I 複数性の言葉 (エクリチュールの言葉)』

  (筑摩書房)

  モーリス・ブランショ 著/湯浅 博雄/上田 和彦 他訳

   ⭐⭐⭐⭐⭐

   ようやくの邦訳登場

 

 

ブランショといえば文学の人でまちがいはないはずですが、
思想家としての面に注目するなら、本書を読むべきでしょう。
本書を読めば、デリダはもちろんですが、
ブランショがドゥルーズにも影響を与えていることがわかると思います。

フランス語ができない僕は邦訳を探して現代詩手帖特集号を入手しましたが、
ほんの一部の訳でしかないことに失望したものです。
すべてを翻訳で読むことはあきらめていただけに、
今回の出版は涙が出るほどに喜びを感じています。

ただ、『終わりなき対話』は全体が三部構成になっています。
そのため3冊に分けて出されるようです。
本書だけで4500円を越えるだけに、相当な出費を覚悟しなくてはなりません。
250ページという量からすれば値段設定が高くないですか?
喜び勇んで値段を見ずにレジに持って行ったので驚いてしまいました。
もちろん、待ち望んでいた僕に不満があろうはずはありませんが。

僕個人はデリダもドゥルーズも好きではないのですが、
久々に読んでも、やはりブランショは興味深くおもしろいと感じました。
〈他なるもの〉もしくは他なる言語を追い求めるブランショの言葉が、
哲学に着地しない文学的な問いとしてなされているからでしょうか。

『終わりなき対話』という題名の通り、
章のいくつかは二人の人物の対話のようなかたちで進みます。
ブランショが対話に置く意味に関しては、
二種類の「中断」として述べられています。
一方では統一性をめざし、他方は異邦性と関係を結ぶエクリチュールの言葉を導くという
話すことの二重化を対話による「中断」が可能にするのです。

ブランショの思想はアポリアのかたちをとっています。
「現前的=現在的であることのありえないものの現前」とか、
「内に立つこと=近づいていることの内奥性であると同時に〈外〉の拡散=錯乱」
などは、言語が持つアポリア(言語化することで失われるものが言語にとって重要であるということ?)
を考えているからではないかと僕は安直に言語化したりしてしまうのですが(笑)

ドゥルーズ思想にも接続と切断の両面があるらしいのですが。
こと哲学となるとアポリアに耐えられず、片面だけの世界に陥りがちです。
(他への逃走=切断ばかりに偏って人間不在になったメタ的発想などが典型です)
最近は文庫などでヘーゲル本の新刊が出るようになっていますが、
弁証法の発想を見直す必要があるという動きであれば納得できます。

訳者あとがきを読むと、
この本を書いている間にブランショはレヴィナスの『全体性と無限』に出会ったらしく、
その前に書かれたものと後に書かれたものを追うことで、
ブランショがどのようにレヴィナスに応じたのかがわかるようです。
僕にはついていけそうもない観点ですが、一応参考までに。

 

 

 

「2017年1月臨時増刊号 総特集◎九鬼周造 ―偶然・いき・時間― (現代思想)」 (青土社)

  • 2017.03.11 Saturday
  • 21:57

 

「2017年1月臨時増刊号 総特集◎九鬼周造 ―偶然・いき・時間― (現代思想)」

  (青土社)

   ⭐⭐⭐⭐

   千葉雅也の自己宣伝エッセイはいらない

 

 

「現代思想」と千葉雅也には(安倍晋三と籠池泰典よりも?)、
特別に親密な関係があるように感じています。
編集長の栗原一樹はその説明をすべきだと以前レビューで書いたのですが、
いまだその説明がされているようには見えません。
増刊号ならいいだろうと思ったのか、また千葉雅也を起用しているのですが、
必然性に欠ける起用にしか思えませんでした。
(それだけに特別な関係をより印象づけています)

本誌は九鬼周造の特集号です。
僕は遠い昔に『いきの構造』を読んだきりで、九鬼をしっかり読んだことがなかったので、
今回の特集にあわせて『偶然性の問題』と『人間と実存』を読んでみました。
それでも本誌の論考はどれも難しく、僕の理解の及ばない部分も多々ありましたが、
力作ばかりで非常に勉強になりました。

中でも宮野真生子の和辻哲郎と九鬼周造の比較をした論考は興味深いものでした。
人間存在を間柄として把握した和辻に対し、九鬼が人間存在の根源的偶然性をみているというのです。
和辻の間柄「である」は日常性に通じ、九鬼の事実的偶然性「がある」はその根底にあるという整理はあざやかです。

ただ、この問題は個人的にとても難しいものだと感じました。
根源的偶然性は大澤真幸が根源的偶有性と言ったものと同じだと思うのですが、
大澤はその説明をするときに塹壕戦で隣の兵士が射殺された例を持ち出し、
死んだのは自分であってもおかしくない、というような話をしていました。
このように根源的偶然性を認識する非日常の場にふさわしいのは、戦場だったりします。
ハイデガー思想にしてもそうなのですが、存在の根源性を考える場合、
これをどう訴えるかが難しいところです。
下手に全体化すると日常の破壊を肯定することになるからです。
ハイデガーの影響が濃い九鬼の思想を再評価する際にも、
その後の歴史を踏まえてこのことへの注意を促しておく必要があると感じます。

橋本崇の論考は九鬼の偶然性からマルクス・ガブリエルの論を考察しています。
九鬼の「原始偶然」はシェリングに由来するはずなので、
シェリング研究者であるガブリエルが持ち出されるのには必然性が感じられます。
ガブリエル思想の説明も非常にわかりやすく、興味深く読みました。

しかし、九鬼をカンタン・メイヤスーの思想と重ねるのには疑問を感じずにはいられませんでした。
千葉雅也のエッセイというのがそういう内容で、
九鬼の「原始偶然」を取り上げ、世界は別様でもありうるとするメイヤスーと類似する、としています。
僕は九鬼をにわかでしか勉強していませんが、にわかに信用できない論だと思いました。

まず、前述したように「原始偶然」はシェリングの概念です。
それとメイヤスーが類似するなら、
シェリング研究者のマルクス・ガブリエルがメイヤスーを痛烈に批判している意味がわからなくなります。  
また、九鬼の偶然論は時間論と密接な関係を持っていますが、
「祖先以前性」を持ち出すメイヤスーにはメタ的発想があるだけで、時間論があるようには思えません。

また、「原始偶然」が「絶対的形而上的必然」と結びつけられていることの意味を千葉は無視しています。
このことの重要性は、本誌でも他の論考で書かれています。
たとえば古川雄嗣は「原始偶然」についてこう述べています。

 強調すべきことは、原始偶然の概念は「経験の領域にあって全面
 的に必然の支配を仮定」することによって得られるものであると
 いうことである。つまり、彼はここで、因果的必然性に基づく決
 定論の立場に立っているのである。

古川は九鬼の哲学を「因果的必然性と因果的偶然性の矛盾結合」と言っていますが、
僕が九鬼を読んで受けた印象もこちらに近いものでした。
メイヤスーは「偶然性の必然性」と言っていた気もしますが、
その「必然性」は強調のためのレトリックであって、偶然性と対置する意味での必然性を意味しません。
もちろん両者の矛盾結合を意図していることにはならないと思います。

古川の論はそこから九鬼が「運命」を導き出したことを語りますが、
ここには実存の問題が関わるにちがいないので、
人間不在の世界を考察するポスト・ポスト構造主義と類似するはずもありません。
また、本誌では古荘真敬も九鬼周造の運命論を考察しています。
ここでも偶然性と必然性の異種結合が語られています。

これをふまえると、
九鬼を偶然性の面だけでとらえた千葉の主張は僕には強引としか思えないのですが、
本誌の編集後記を読むと、本誌の編集者はこの千葉一人のあやしげな見方を重視していることがわかります。

 世界の非人間性への感度といい、偶然性への照準といい、九鬼の
 哲学は、彼ら(注:メイヤスーとガブリエル)が代表する現代の
 「思弁的唯物論」、あるいは「新しい実在論」との奇妙な近似を
 示しているようにも思える。

本誌ではもう一人、山内志朗がメイヤスーを引用していますが、
ライプニッツと対置しているだけで、
九鬼と類似しているとは全く書いていませんので、
この編集者の認識は千葉雅也によってもたらされた(もしくは偶然気が合った)ものでしかありません。
僕が「特別に親密な関係」と言うのはそのためです。

僕は千葉が九鬼をメイヤスーに近づけるのは自己宣伝が目的だと思っています。
思想的な必然性が薄いのですから、自己利益のためとしか思えないのです。
学問と宣伝の区別がつかない人間に思想をやる資格があるのか疑問ですが、
雑誌「現代思想」がその片棒を担ぎ続けているのは、
読者を軽んじる態度ではないかと怒りを覚えています。
何度も言いますが、そんなに千葉を起用したいのならば、
彼を特別扱いする理由を説明してください。
このレビューのコメント欄を利用してくださって結構です。

〈フランス現代思想〉を現代の真理と考えて、
それと似たことを言っているという視点で過去の思想を掘り返すことに創造性はありません。
ただ、ハリボテの権威を強める保守的な効果をもたらすだけです。
こういう現在至上主義は資本主義だけでたくさんです。
僕は商売気の強い人の「適当」で「笑止千万」なエッセイなど読みたくはありません。

 

 

 

『夢想の大地におがたまの花が降る』 (書肆山田) 四ッ谷 龍 著

  • 2017.03.09 Thursday
  • 13:48

『夢想の大地におがたまの花が降る』 (書肆山田)

  四ッ谷 龍 著 

 

   ⭐

   コマネチやコケまくってるこの句集

 

 

田中裕明賞で審査員として専制をふるっている四ッ谷龍の新句集です。
若手との交流と震災とバッハ研究が影響していると著者本人が記しています。
僕には震災の影響はあまりつかめなかったのですが、
若手交流とバッハ研究の影響は確実に悪い方に働いていると感じました。

全体を読んで印象に残ったことは二つあります。
ひとつは切れ字の使用をできるかぎり避けたり、
定型を崩す字余りを意識的に多用しているということ。
もうひとつはバッハ研究の成果を俳句に持ち込んで、
フーガ形式のような連作をつくっていること。

「ナルシシズムとか頭でひねったアイデアみたいなのが先にあって、
それを言葉にしちゃってるようなところもある」
とは第三回田中裕明賞で四ッ谷が山口優夢の句を評した言葉ですが、
同じ印象を僕は四ッ谷自身の句集に抱きました。

 台風がアンモナイトの上に来る
 「トースターで焼かれたような」詩が愛撫から生まれ
 プレート・テクトニクス男同士の腕からまる
 なんという朝!奴はあんこになっちゃった

台風の渦巻きが渦巻き模様のアンモナイトの上に来るという句に、
ユーモアを感じるには前提としてメタ的な視点が必要です。
つまりこの句に実景のユーモアはなく、
メタ的な戯れに優越感の喜びを感じるナルシシズムがあるかどうかが作用します。
僕はこういう無機的な言葉によるメタ的遊戯は詩ではなくサブカル的な堕落だと思っているので、
ユーモアがあるとはまったく思いません。

「トースターで焼かれたような」詩、とは何か出典でもあるのでしょうか?
僕にはまったくわかりませんでした。
詩が愛撫から生まれ、の部分も、
物質でないものを愛撫するというのは飛躍がありすぎて困惑します。
こういう句は意味がわからなくても、
読者に何かしらのイメージを立ち上げられれば、詩になると思うのですが、
それも難しいのではないかと思いました。
せいぜい「うまいこと言った」という作り手の自己満足があるだけです。

プレート・テクトニクスとからまった男の腕もイメージを取り結びません。
大地を男性の腕と重ねているのでしょうか?
でも、プレートテクトニクスはプレートの水平移動を意味しても「からまる」ことは直接には意味しませんよね。
もし、プレートのぶつかり合いで起こる地震を意味したいのならば、
プレート・テクトニクスでは意味合いが不正確(プレートの移動が必ず大地震になるわけではない)なので、
どうして「プレートの衝突」と言わないのかという疑問が起こります。
おそらく主観過多か知的な操作をしたかったのかのどちらかだと思いますが、
こういう関悦史に影響されたような主観過多なカタカナ語の濫用は、作り手のナルシシズムしか伝えません。

最後の「なんという朝!」はバイきんぐの小峠のネタ「なんて日だ!」の方が5文字ですぐれています。
キャッチーなお笑いはお笑い芸人に任せた方が良いでしょう。

四ッ谷は「素直に「かな」とか「けり」とか使っちゃだめなんですね」と第6回田中裕明賞の審査で発言しているので、
この句集でも「かな」と「けり」の使用は極力避けられています。
問題はその試みがどれだけ成功しているかですが、
あまりうまくいっているようには思えませんでした。

切れ字を避けたため、四ッ谷の句には一定のパターンが目立ちます。
1 AのB CがDする
2 AがBする CがDする
3 AがBするとCがDする
の形です。
特に最後を用言で終わる句が多いのが特徴的です。
四ッ谷は佐藤文香の句を「これは俳句ではない」と批判しましたが、
そのとき「一句は一句として、物として確立していなきゃいけない」と偉そうに言っていたのですが、
用言で終わる句の多くは一句屹立を弱める効果になるだけに終わっています。

 水蛸の口開け襞揺れ全脚巻く
 排気塔霧を突きおり二基見ゆる
 波音の砂町に来て鈴緒引く
 鵲の橋はほろびぬ星雲輝る
 檜の根のぼる亀虫ひっくり返る
 鶺鴒が剣道具店へ来て飛び去る

僕は俳句をやらないので作り手の事情はわかりませんが、
このような結句の用言は、そこが終わりであることを明示できないために、
一句を「物として確立」させるのは難しいのではないでしょうか。
中には「ただの散文じゃないの?」と思う句もありますよね。

ホトトギス的な有季定型に挑戦するのはいいと思うのですが、
かえって俳句を弱めたり崩したりしていることが目立ちます。
こういうのは前衛的試みを讃えるのではなく、やはり結果で評価することが大切です。
(もちろん有季定型の堕落した句も批判すべきです)

ちなみに四ッ谷は第7回田中裕明賞の審査で、
有季定型にこだわる村上鞆彦の句の評価で、
「かな」「けり」を安易に使うところを批判していたはずですが、
使わない結果がこんな句でしかない人には言われたくないと村上も思ったのではないでしょうか。
(その意味で四ッ谷に言われて意見を変えた岸本尚毅は信念のない人間だと失望しました)

長くなったので終わりたいのですが、
もうひとつ、四ッ谷がバッハ研究の影響と述べていたように、
フーガ形式に着想を得たと思われる連作についても言わなければなりません。

 枯野人測量の棒持ち上げる
 長靴に艶とて失せぬ枯野人
 行く我を眼で追っており枯野人
 立ち小便終えれば元の枯野人
 地に何か落として屈む枯野人
 両頬のてらてらとして枯野人
 枯野人かばんを掛ける肩換える
 ポケットから何かはみ出て枯野人
 枯野人携帯電話に「えっ、えっ」と

四ッ谷は一句で完結していないものは俳句ではないと言っていたので、
これは俳句ではないのかもしれないのですが、
日野草城「ミヤコホテル」以来、連作というのはどうしても散文的になりがちです。
上に引用した句もやはり散文的な場面描写の連続を逃れられていません。
一句としてはともかく、まとめて見ても特に面白くもありません。
仲間内の俳人は謹呈本でタダで読んでいるので、面白いですませられるでしょうが、
高い金を払って買ったのに、こんなものを読ませられてはたまりません。

もっとひどいのが、これに頭韻を組み合わせた連作です。

 なななんとなんばんぎせるなんせんす
 男色のなんばんぎせるなななんと
 生煮えななんばんぎせるナルシスト
 泣いちゃうぞなんばんぎせるなまけもの
 なにくそやなんばんぎせるなんぼやねん
 なりきったなんばんぎせる鍋つかみ
 殴りあうなんばんぎせるなまけもの
 嘆くなよなんばんぎせるなせばなる
 なちゅらるななんばんぎせる嘆くのな
 成増でなんばんぎせるなかなおり

実は上の句にはひとつだけ模倣をした僕の句が入っています。
区別できないとしたら、俳句をやらない人間でもできるということです。
こういうのは、座を囲んでみんなで言い合うのであれば楽しいかもしれませんが、
句集として金を払って読む気になるものではありません。

余計なことですが、この連作のどこにバッハ研究が活かされているのかもわかりません。
フーガ形式は主題を繰り返しますが、
対唱、応唱と主題自体がズレながら、ビブラート的な拡張効果をもたらし、
垂直性の展開をもたらす、つまりはクライマックスに向かうものだと思います。
しかし四ッ谷の連作は繰り返されるものが季語である時点で、
作り手の創作した主題でもなく、主題自体のズレもありません。
当然クライマックスはなく、水平的にダラダラ続くだけです。
これはむしろ日本的な「奥」の形態に近く、どこがバッハなのか首をひねりたくなります。

全体的にこういう知的操作の自己満足ばかりが目立つ句集でした。
結果、パズルのように用いられた言葉は無機的な道具に貶められ、
感動を導いたり、詩的なイメージを喚起したりする詩語にはほど遠いものになっています。
いろいろ工夫をすることも大事ですが、結果が「つまらない」句でしかないのは問題です。
頭で考えたことがどれだけ立派でも、
できあがった句がある程度の文学的水準に達しなければ意味がないということを、
四ッ谷はもっと胸に刻みつけるべきだと思います。

 

 

 

『はるかな星』 (白水社) ロベルト・ボラーニョ 著

  • 2017.03.02 Thursday
  • 10:13

『はるかな星』  (白水社)

  ロベルト・ボラーニョ 著/斎藤 文子 訳

 

    ⭐⭐⭐

   これが名作なら、僕はいい読者ではなかった

 

 

この作品はボラーニョの最高傑作にあげられていたこともあり、
店頭での翻訳小説フェアにも並べられてもいたので購入してみました。

本書の冒頭では、
『アメリカ大陸のナチ文学』で概略的にしか書かれなかった人物について、
もっと別の長い物語を書く目的で本書が誕生した、と説明されています。
具体的には、カルロス・ビーダーという飛行機の煙で空に詩を書く男についての物語です。

語り手はビーダーと同じ大学の詩のゼミにいた人物で、
その友人ビビアーノとともにビーダーやゼミの仲間などの足取りを追う展開になっています。
物語序盤ではビーダーの謎めいた人物像が興味をそそります。
彼の驚くべき裏の顔が描かれてから、飛行機詩人として再度登場するまでの流れは面白く、
楽しみながら読めたのですが、ゼミの先生の話あたりから焦点がぼやけてきます。

一度テンションが下がってからはビーダーの話に戻っても面白くなりませんでした。
ラストで語り手がビーダーに抱く心情の微妙さこそがこの小説のクライマックスだと感じましたが、
その心情にも寄り添うことができませんでした。

9章の冒頭に「僕はもう二度と文学の糞の海に潜るつもりはない」と書かれているので、
ビーダーたちにチリの詩人の悲劇的運命が重ねられていて、
それをはるか彼方から遠望するしかない語り手の挫折感が描かれているのだろうと推測しますが、
前述したように実感としては感じることができませんでした。
巻末の鴻巣友季子の解説にもたいしたことは書いてありません。

紀伊國屋書店の翻訳小説フェアで並べられていた作品なので、
広い読者が楽しめる本なのでしょうから、
僕があまりいい読者でなかったということかもしれません。
ですから、あなたにとって名作である可能性は十分あるような気がします。

 

 

 

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