『遠読――〈世界文学システム〉への挑戦』 (みすず書房) フランコ・モレッティ 著

  • 2016.11.23 Wednesday
  • 21:51

『遠読  〈世界文学システム〉への挑戦』 (みすず書房)

 フランコ・モレッティ 著 

 

   ⭐⭐

   システムとして世界文学を捉えることに新たな可能性はあるか?

 

 

モレッティは資本主義と同様に、世界中の文学をただ一つのシステムとして考えようとしています。
そこで、正典(カノン)という少数の重要な作品の精読に代わり、
イマニュエル・ウォーラーステインの世界システム論をモデルにした
「遠読(distant reading)」という形式パターンと統計による分析を提唱します。
そこにはダーウィンの進化論の発想も影響しています。

 文学システムにおいて周辺に属する文化(つまり、ヨーロッパ
 内外のほぼすべての文化)では、近代小説は当初、自発的に発
 展したのではなく、西欧(通例フランスかイギリス)の形式の
 影響と地域独特の材料との妥協から生まれたのだ。

このように述べるモレッティは、世界文学は西欧の形式が周辺に伝播し、
その地域の要素との「妥協」により多様なヴァージョンを生み出したが、
その元々はルーシーよろしく唯一の起源をフランスかイギリスに持つと考えているようです。

このような考え方に西洋中心主義を感じ取って批判する方もいるようですが、
こと近代文学(それも小説)だけを考えるならば、暴論ともいえない気がします。
重要なのは世界文学システムと「遠読」という方法から、どのような興味深い研究ができるかという点だと思います。

本書にはその具体的な実践例も収録されています。
コナン・ドイルの時代の探偵小説を系図にして分析したものや、
ハリウッド映画が世界でどう受容されているかをジャンル別に考察したものや、
1740年から1850年までの英国小説の七千タイトルを省察したものや、
『ハムレット』や『紅楼夢』の登場人物関係(ネットワーク)を分析したものなど、
なるほど多岐にわたって新奇な研究がなされています。

実際に読んだ感想はひとそれぞれあるのかもしれませんが、
僕にとってはひとつとして刺激的な論はありませんでした。

コンピュータを使ったデータ処理となれば、安直に統計に走るわけですが、
モレッティの研究はそれ以上のものを引き出せていません。
統計によって新たな視点や問題が浮かび上がるならまだしも、
単に統計分析をするとこうなりました、ということにしかなっていないのです。

タイトルの統計分析といっても長さなどの形式面が対象なので、
浮かび上がってくる問題は他愛のないものですし、
『ハムレット』の人物ネットワークの図など、Googleのページランクを応用したような感じですし、
要するに他の分野で用いる方法を文学に持ち込んだだけという弱点をモロに露呈したままなのです。

本書で僕が一番感心したのは、
最初に納められた「近代ヨーロッパ文学」という論考でした。
ヨーロッパ文学が統一と分裂の両面を持ちながら、
亡命文学や帝国主義を通して進化論的に発展するさまを描いているのですが、

  大衆文学とモダニズムは、ある種の協定を結んでいたのでは
  ないか? 分業の黙契のようなものを? 後者が抽象の領域
  へと参入し、キャラクターを分解してついには消失させてし
  まうのに対し(ムージルの「男のない特性」)、前者は擬人化
  された信仰を強化し、亡霊やら火星人やら吸血鬼やら世紀の
  犯罪者やらで世界中をいっぱいにする。

という記述にはひざを打ちました。
(ムージルの「男のない特性」は「特性のない男」の誤植ですかね?)

世界文学の研究に統計学的アプローチが有効でないとは言いきれませんが、
現状のモレッティの研究からは有効性はあまり感じられませんでした。

 

 

 

『ラテンアメリカ文学入門 - ボルヘス、ガルシア・マルケスから新世代の旗手まで』 (中公新書) 寺尾 隆吉 著

  • 2016.11.23 Wednesday
  • 15:50

『ラテンアメリカ文学入門 - ボルヘス、ガルシア・マルケスから新世代の旗手まで』  (中公新書)

 寺尾 隆吉 著 

   ⭐⭐⭐⭐⭐

   南米文学の入門書にはとどまらない

 

 

本書はラテンアメリカ文学史と呼ぶにふさわしい内容です。
専門的な視野で19世紀後半から現在までのラテンアメリカ文学の歴史をさらっています。
僕が今年読んだ新書の中では情報量と密度と誠意において最高評価を与えられます。

専門書にも負けないしっかりした内容なので、
僕が読んだことのある作家(ホルヘ・ルイス・ボルヘス、ガルシア・マルケス、
カルロス・フエンテス、バルガス・ジョサ、ホセ・ドノソなど)が登場するまでは、
新たな事実や聞き慣れない作家が次々に現れるので、
なかなか読み進むのに苦労しました。
彼らに馴染みがある人は第3章から読むと楽かもしれません。

我が国と同じく、ラテンアメリカでも文学は近代化もしくは近代国家の形成と関係して発展し、
70年代をピークに近代化完成期の80年代以降は行き詰まりを見せるのですが、
その流れが新書サイズで見事に描き出されていました。
メキシコ革命やキューバ革命が文学に与えた影響についても、
政治的視点が強くなりすぎない筆致で本書のボリュームに合っているように思えます。

第1章の流れを紹介します。
ラテンアメリカでは「アルカディア」と呼ばれる首都在住の特権文化階層が出版を独占していました。
彼らは体制的な詩人を重視し、小説は低い地位に置かれ、検閲も行っていました。
閉鎖的で排他的なサロンであるアルカディアに反発したのが、アヴァンギャルドと地方主義小説です。
地方主義小説の成功作であるホセ・エウスタシオ・リベラの『渦』は、
辺境地帯の実態と不正の告発という政治色の強い内容で、
国家主導の知識人を読者としたため、アルカディアの支配に終止符を打ちました。

その後、ラテンアメリカ全体で小説が国益にかなうものと見られ、
政治と小説が結びつきを深めていきます。
その最たる例がメキシコ革命小説です。
メキシコ革命を題材にした小説を、その内容が批判的であれ、政府は庇護の対象としました。
それが小説の発展に大きく寄与したのです。

このように初期のラテンアメリカ文学はリアリズムを基盤としていたと寺尾は述べます。
社会告発というメッセージの伝達を重視した小説は、しだいに画一化するようになり、
いよいよ次のステージへと移行するわけです。

第2章では1940年以降の魔術的リアリズム、アルゼンチン幻想文学、メキシコのアイデンティティ探求文学が語られます。
ヨーロッパで認められたアレホ・カルペンティエールや、
雑誌「スール」で活躍したボルヘスやビオイ・カサーレスが登場します。

第3、4章は前述したガルシア・マルケスやバルガス・ジョサのノーベル賞コンビなど、
ラテンアメリカ文学のブームが描かれます。
ブームの誕生にフエンテスのヨーロッパへの売り込みがどのような役割を果たしたか、
スペイン語圏の文学として彼らがバルセロナに進出するのにエージェントの力があったことなど、
各作家のキャラクターを含めて興味深い話が目白押しです。
中でもキューバ革命との関係は僕はこれまでよく知りませんでした。

第5、6章はブーム以後のラテンアメリカ文学についてです。
ベストセラーが生まれる一方、内容は停滞したものとなっていくことが、
寺尾の短く的確な説明で理解しやすくなっています。
ラストはロベルト・ボラーニョの登場で締めくくられています。

僕は現在フエンテスの『テラ・ノストラ』を読んでいる途中なのですが、
本書のおかげで他に読みたい小説がわんさか出てしまいました。
寺尾は僕と同世代ですが、メキシコ、コロンビア、ベネズエラなどで6年も研究してきただけあって、
しっかりした研究に裏打ちされた良書でした。
新書にしてしまったのがもったいないような気さえします。

 

 

 

『情報社会の〈哲学〉: グーグル・ビッグデータ・人工知能』 (勁草書房) 大黒 岳彦 著

  • 2016.11.22 Tuesday
  • 20:14

『情報社会の〈哲学〉: グーグル・ビッグデータ・人工知能』 (勁草書房)

  大黒 岳彦 著 

   ⭐⭐⭐⭐⭐

   情報社会の存立構造に迫る渾身のクリティーク

 

 

NHKを退職して東大大学院に入り、明大教授になった経歴を持つ
大黒岳彦がメディアに対する体系的批判(クリティーク)を試みた本です。
いまだ旧世紀の発想でメディア論を上梓している学者もいる中で、
大黒は2010年以降の最新メディア環境を扱っています。
GoogleはもちろんビッグデータやAI、SNSなども扱われています。

まず、導入となる序章が興味深いのです。
大黒はインターネットというネットワークメディアとテレビ的なマスメディアを区別し、
その地殻変動をマーシャル・マクルーハンを題材に考えていきます。

マクルーハンは著書『グーテンベルクの銀河系』で活字の黙読による個人主義文化の成立を語りましたが、
彼個人は〈活字〉の文化より共同体的な〈声〉の文化を理想視していました。
マクルーハンはテレビという〈電気〉メディアによって〈声〉の文化の復活を目論んでいたのです。
大黒はそこにカトリック的な一体感を持つ共同体としての「地球村」への憧憬があったと語ります。

しかし実際にはインターネットによって「地球村」は実現していません。
「なぜならメディアは一般的に言って、「融合」と同時に「分断」と「差別化」をも果たすからである」
と大黒はいうのですが、これは重要な指摘です。

 電話というメディアは、単に人と人とを〈つなぐ〉技術ではな
 い。それは、「いつでも電話で話せるから」という理由で人と
 人とを〈切り離す〉技術でもある。また、ある人と〈つながる〉
 とは、その人を選別したことであり、したがってそれ以外の人
 を〈排除〉したことを意味する。

いつでも自己都合でつながることは、それ以外の時間はつながりたくない、という欲望を生みます。
また、つながりたい相手を自己都合で選ぶことは、望まない相手からのアプローチを嫌悪することになります。
問題なのは、圧倒的に〈切り離す〉時間や相手が増えるということです。
現代の排外主義はこのようなメディア環境によって引き起こされているのではないでしょうか。

大黒は排外主義の話ではなくマクルーハンが依拠したメディアが、
テレビ的なマスメディアであったことを問題にしていきます。
マスメディアとは「権威としてのプロフェッショナルが制作した情報コンテンツが大量に複製され、
それが大衆という不特定多数の受容者に対して情報「商品」として一斉同時送信される「環境」」ですが、
ネットワークメディアでは発信者と受信者の区別がハッキリしなくなるので、
マクルーハンが描いたような事態にはならなかったのです。

個人的なことですが、僕はAmazonでレビューを書いたことで、
著者から何度か人格を貶めるツイートを流されました。
彼らはいまだ「プロフェッショナル」としての「権威」だけを貪り、
「プロフェッショナル」な仕事をしない人たちなのですが、
ツイッターを扱いながら彼らがメディア環境の変化にいかに対応できていないかがわかります。

この変化から、大黒は学者の知識に依拠した仲介業である「知識人」がお払い箱になると指摘します。
ネットワークメディアにおいては、マスメディアから大衆へというヒエラルキーは成立しなくなるのです。
それに代わり、情報社会の「知識」をめぐる権力を主導するのはGoogleだとします。

第一章はあらゆる情報を収集する「汎知」のあり方を、
文字メディアの様態である博物誌、百科事典、教科書を順々にさらいつつ、
電子メディアの様態(代表はGoogle)への変化をたどります。
大黒が強調するのは電子メディアのユーザーインターフェイスには「主体性」が実装されているということです。
どういうことかというと、断片化された情報をつなぐ「リンク」という知的作業は、
利用者の側ではなく検索システムの側にあるということです。

大黒はこのような事態をマルティン・ハイデガーが予言していたと述べます。
ハイデガーはテクノロジーの自己目的化運動を「配備=集立」(Ge-stell)として批判しています。
このような事態は現在も進行中であるわけですが、
昨今の思弁的実在論は情報社会の現状を追認し適応を促すばかりで、
ハイデガーの予言を覆すに至っていない、と大黒の口吻は不満げです。

第二章はビッグデータを扱っています。
問題となるのはデータ収集の運動が〈自律=自立〉することです。
人間の意志決定はビッグデータの自己目的運動に組み込まれ、知らず知らず「搾取」されることになります。
そこではデータのオートポイエーシスの方が「主体」となるのです。

第三章はSNSによるコミュニケーションの情動化をふまえて、
「実在的」社会把握に代わる「抽象的」な社会理論としてニコラス・ルーマンの社会理論が紹介されます。
ルーマンは社会をコミュニケーションの連鎖的接続によって産出されるオートポイエーシス・システムと考えています。

人工知能とロボットに触れるのが第四章です。
ここでは身体がネットワークに組み込まれることで、人間から引きはがされ、
「配備=集立」(Ge-stell)の運動に巻き込まれる事態が語られます。
大黒はAIが従来のように所与のデータを扱うのではなく、
人間のアウトプットしたデータから認識困難な課題を見つけ出すようになり、
人間を素子として利用している点で、すでに人間を超えていると述べています。

大黒はロボット工学者のロドニー・ブルックスの「包摂アーキテクチャ」を取り上げ、
それが人間ではなく昆虫に範をとるものであり、
主体性が局所化、分散化されることを指摘します。
もはや主体性に内面は必要がない、自律して「見える」ことが主体性だと判断されるというのです。

 では、AIとロボットがそこへと組み込まれつつある新しい社
 会とは如何なるものなのか? (中略)端的に言えばそれは、
 〈コミュニケーション〉が非人称的“演算”(Operation)として
 持続的に連鎖する中で、社会構造が〈再帰的(reflexiv)=自己言及
 的(selbstreferenziell)〉に、すなわち社会過程の反復によって力動的
 に再生産される一つの〈システム〉である。

大黒は情報社会の中で人間は
「AIやロボットと機能的に等価なネットワークのノード」となり、
主体性の特権的所有を誇ることはなくなると語ります。

最終章で大黒は情報社会において倫理が可能かを問います。
倫理には権威の承認が必要だが、インターネットはそれを無化する構造を持つため、
〈ネットワーク〉メディアにおいては倫理の不可能性が前景化せざるをえないからです。
こうした状況に対し、大黒は倫理的多元主義の可能性を考察します。
ルーマンとジャック・デリダの思想をヒントにして、
現行の社会システムを別でもあり得た可能性の一つとして相対化し、新たな多元性の領野を偶発的に捉えるというやり方です。

このあたりの議論はとりわけ抽象的なので、詳しくは本書を読んで頂きたいのですが、
非倫理的な外部の参照によって絶えず倫理のアップグレードをはかり、
システムそのものが不断に変化することだと僕は理解しています。
こうして「〈倫理〉こそが情報社会の「可能性の条件」なのである」という一文で本書は閉じられます。

この長いレビューにつきあっていただいた方にはおわかりだと思いますが、
本書は情報社会の現在を捉えるための広い視野と深い考察に満ちていて刺激的でした。
「哲学」ということを強く意識しなくても多くの示唆が得られる本だと思いますのでぜひ一読をおすすめします。

 

 

 

『モノたちの宇宙: 思弁的実在論とは何か』 (河出書房新社) スティーヴン・シャヴィロ 著

  • 2016.11.19 Saturday
  • 19:27

『モノたちの宇宙: 思弁的実在論とは何か』 (河出書房新社)

  スティーヴン・シャヴィロ 著

 

   ⭐⭐

   思弁的実在論の批判的考察

 

 

「思弁的実在論とは何か」という副題がついているように、
本書は近年注目を集めている思弁的実在論を取り上げています。
ただし、本書は思弁的実在論の紹介を意図したものではありません。
思弁的実在論に照らしてホワイトヘッドの思想を見直すことが本書のテーマです。
そのため、ある程度ホワイトヘッドや思弁的実在論に対する知識が要求されます。

著者のスティーヴン・シャヴィロが何者なのか、本書の解説などを見てもよくわからないのですが、
映画や文学、資本主義や消費文化を分析した著作があるので、
ゴリゴリの哲学畑というより幅広い関心を持つ人のようです。

思弁的実在論や「新しい唯物論」などの名称で括られる思想家たちは、
人間の思考においてのみ存在に関係しうる相関主義の限界を超えて、
人間が不在でも実在する「モノ」についての思想を試みています。
シャヴィロは彼らの思想を手がかりにホワイトヘッドの思想の有効性を説いていきます。

たとえばシャヴィロはわりとグレアム・ハーマンには好意的に思えるのですが、
ハーマンとホワイトヘッドの思想を比較してこう言います。

 ホワイトヘッドは決定をなす様々な存在者からなる動態的な世界
 を構想する。より精確に言えば、その存在そのものが実行する決
 定によって成り立っているような存在者たちの世界のことである。
 対照的に、ハーマンの存在者たちは自発的に行為したり、決定す
 ることがなく、それらは端的に存在する。

シャヴィロはハーマンが対象を互いに分離し孤立させることに執心したために、
接続やコミュニケーションが脆弱で偶発的なものでしかなくなると指摘します。
対するホワイトヘッドは相互浸透する存在者たちの自発的な選択と決定による、
分離し結合し変化する新たな創造に富む世界を描いているとします。

思弁的実在論も内実を見れば人によって方向性は異なるのですが、
カント的な相関主義(とそれによる人間中心主義)を拒絶する立場であることは共通しています。
相関主義の完全なる拒否は思考の排除へと向かいます。
シャヴィロがカンタン・メイヤスーやレイ・ブラシエの思考を「消去主義」と呼ぶのはそのためです。

シャヴィロは相関主義批判には両極しかないと言います。
「相関主義的循環の外に歩み出すとき、ぼくたちは一方で汎心論、
他方での消去主義という選択に直面するのである」
消去主義と汎心論もしくは両者の結合によって、
世界は「人間の生や思考にとってよそよそしく、明らかに敵対的なもの」となります。
シャヴィロは相関主義批判が人間疎外の必然化へと向かうと言いたげです。
それを逃れるとしたら、ホワイトヘッドの思想だけが例外だと主張します。

メイヤスーの描くモノは決定的に思考を欠いた受動的存在でしかありませんが、
シャヴィロは自らを価値づけるような「思考するモノ」として存在者を捉える汎心論的思考をぶつけます。
ホワイトヘッドがあらゆる存在者を内的かつ外的、私的かつ公共的なものと考えていることが述べられています。

メイヤスーの消去主義は思考や主観性を欠いた存在を描き出すため、
数学や自然科学による非相関的な接近を目指すことになります。
しかし、アレクサンダー・ギャロウェイによると、
数学はそれほど相関主義の論理を免れていないようなのです。
ブラシエも相関主義を免れるために物理学を持ち出すのですが、
シャヴィロによると、ブラシエは思考によって生み出された科学が、
思考自体の抹消を裏付ける思考として活用され、
「思考にひどく反する宇宙を認識することになる」と書いています。

 ブラシエとメイヤスーの二人とも自然の二重分岐を再肯定し、
 物理的宇宙から意味や感覚性を廃している理由は、逆説的にも
 そのあからさまな認識論主義を通して、彼らが十分に反相関主
 義ではないためである。

シャヴィロがそう語るのは、メイヤスーが数学的形式化に至る動機が、
非相関的な対象を得るためでなく、感覚や主観性を排除するためであり、
つまりは現象学をお払い箱にするためだと指摘しているからです。

現象学は思考外部にある自律した存在を想定していません。
その意味で現象学は相関主義にあたるわけですが、
メイヤスーは現象学に対抗する姿勢であるにもかかわらず、
「知覚と感覚あるものは根本的かつ必然的に志向的であるという
現象学による想定を当然と認め、また全く疑問をさしはさまない」
つまり、シャヴィロはメイヤスーはアンチ相関主義でしかなく、
非相関的な思考には至っていないというのです。

メイヤスーが人間存在以前の「祖先以前」を、
ブラシエが人間以後の「絶滅の真理」を持ち出し、
人間の思考や感覚を排除した「モノ」の世界を描き出そうとする動機は、
僕には「モノ」の実在を見つめ直すというよりも、
〈フランス現代思想〉の反人間中心主義や他者への志向を徹底化することにあるように思えます。

行為の反復を否定したクラテュロスが論理の徹底化によって行為そのものを否定することになったように、
他者志向の徹底化はかえって自己の肥大化を招く皮肉な結果になります。
反人間主義による自己への懐疑は、その思想自身を疑わないとデカルト的自己形成を果たし、
反人間主義自体が疑いようのない「自己」と化してしまうからです。
そうなると反人間主義は「大きな物語」という巨悪の批判を錦の御旗にした、
メタに立つ自身のナルシシズムだけを「特権的」に温存する孤絶した「小さな小さな物語」でしかなくなります。
(そのため、それを批判する者を人間中心主義として排撃するようになるのです)
つまりは人間中心主義を単に裏返しても人間中心主義でしかないということです。

シャヴィロはメイヤスーよりハーマンに親近感を抱いているようですが、
最終章ではハーマンを批判し自らの思弁的実在論を展開します。

 ある存在者は他のものに関係することなく、したがって思考す
 ることなしに存続できるとハーマンは主張する。

こう述べてシャヴィロはハーマンの描く対象が他との関係から「ひきこもっている」ことを強調します。
ハーマンは認識や知覚を介さない「距たりをもった接触」しか認めず、
そこでは「全く異なった領域でほのめかしや暗喩を通してのみ、
その効果を感じるにすぎない」ことになるとします。

同情的に見ればハーマンの発想を詩的なもの(ポエジー)の理論化と解釈する道があるでしょうが、
詩的なものの全般化というのは、やはりハイデガー的な錯誤だと言えるでしょう。
(その意味で彼らは修正ハイデガー主義と言えなくもありません)
詩的なものの全般化は文学的なものの凡庸化である村上春樹にも通じ、
非常に卑近な技術によって実現したものに重なることになります。

つまり彼らはインターネット的な孤絶しつつ繋がる存在を描いているということです。
それぞれが引きこもって、「距たりをもった接触」をしている存在。
それは「モノたちの世界」よりも「ネット民たちの世界」に近いように思えるのです。
他のレビューで僕は〈フランス現代思想〉の日本的受容が私生活主義のオタク化を肯定するだけに終わったと書きましたが、
やはり思弁的実在論もその延長にあるものとしか思えませんでした。
彼らは人間不在の世界を思索しているように見えて、
実際は「メタ化(透明化)した自分以外の人間が不在の世界」を描こうとしているだけなのです。
(なにしろ数学や科学は本来的に自走するものではありませんからね)
そのため、相関主義を仮想敵にして自らのナルシシズムを高めるだけに終わるのです。

シャヴィロ自身の思弁的実在論に関しても書いておきます。
彼は知の外にある美的な接触をカント的美学によって語ります。
「美学は内在的で、認知にもとづかない接触の領分だからである」
と語るシャヴィロは無媒介の非認知的接触として美学を重視します。
美的判断は主観的でありつつ個別性を超えた普遍的な声を獲得すべく、
他者に対して同意を要求すると言うのです。

 美的判断の「普遍性」はそれゆえ前もって確立はされず、懇願
 と伝達という進行中の過程を通して産出されなければならない。

シャヴィロはカント主義的な美的判断をホワイトヘッドとドゥルーズへと連結し、
メイヤスーともハーマンとも異なる思弁的美学を予告して本書を閉じます。
(シャヴィロは美学に関する大著を刊行予定だと上野俊哉が解説で述べています)

認知の外にある美的判断というシャヴィロの発想も、
オタク的であるという点で僕はまったく乗れないのですが、
これが〈フランス現代思想〉の流れの限界なのではないかと感じます。
芸術自体が商業主義に飲み込まれ、その力が危ぶまれる昨今、
芸術を基盤にした哲学はオタク的心性にどうしても近接します。
そのような危機感がない人々がドヤ顔で〈フランス現代思想〉を語っても、
「趣味人の自己宣伝」と受け取られて終わるだけではないでしょうか。

 

 

 

評価:
スティーヴン シャヴィロ
河出書房新社
¥ 3,024
(2016-06-28)

『40歳からの「認知症予防」入門 リスクを最小限に抑える考え方と実践法』 (ブルーバックス) 伊古田 俊夫 著

  • 2016.11.18 Friday
  • 22:06

『40歳からの「認知症予防」入門 リスクを最小限に抑える考え方と実践法』 (ブルーバックス)

 伊古田 俊夫 著

   ⭐⭐⭐

   40代向けとはいえない

 

 

僕は40代なので、「40歳からの」という釣り文句に誘われて購入しました。
2025年には3人に1人が高齢者となり、深刻な医師不足も懸念されています。
国家が医療費の削減に勤しんだり、TPPで薬代が上がったりすると、
もはや病気になっても満足な医療を受けるのは難しくなるかもしれません。
そうなると、病気にならないよう予防することが大事になってしまうのです。

本書はまさに予防をテーマとしているわけですが、
1章2章は認知症予防のために何をすべきかが書かれていましたが、
3章の予防のための運動は高齢者がやるようなものが紹介されていましたし、
4章以降は完全に高齢者向けの内容で、実際のところ40代向けといえるのは半分以下という感じです。

伊古田は認知症は治せないが、発症を遅らせることはできると言います。
遺伝的要素もあるのですが、半分は生活習慣に影響されるようです。
そのため、実際の予防策は脳卒中の予防など成人病の予防が効果的ということで、
ごくごく当たり前の健康的な生活が推奨されます。

塩分制限、喫煙をやめる、アルコールを控える、十分な睡眠、適度な運動などは、
とりたてて本書を読まなくてもわかるようなことに思えます。
特に40代はいわゆる働き盛りで生活に余裕がないので、
わかっていても十分な睡眠はとれず、適度な運動もできず、外食をしてしまいます。
伊古田にはそのような浮世の生活がわからないのか、
単に医師の立場から当然のことを言うだけなのであまり参考になりません。

要するに、余裕のある慎ましい生活をするべきだということです。
まずは適度な金持ちになって過剰労働から解放されることが必要だということでしょう。
「40歳からの」と言うのならば、40代のリアルな生活を考えて執筆してほしいと思いました。

 

 

 

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