『カール・マルクス: 「資本主義」と闘った社会思想家』 (ちくま新書) 佐々木 隆治 著

  • 2016.04.28 Thursday
  • 18:02

『カール・マルクス: 「資本主義」と闘った社会思想家』

  (ちくま新書)

 佐々木 隆治 著 

   ⭐⭐⭐⭐⭐

   マルクス思想のまだ見ぬ全体像に向けて

 

 

これまで自分より上の世代のマルクス本しか読んだことがなかったので、
僕と同世代のマルクス研究者の本というのは興味がありました。
社会主義には暗いイメージしかありませんでしたし、
バブルを謳歌し革命に夢を見る必要もない世代だったからです。

いわゆる「左翼」が格好悪くなった現在、
マルクスの名前を出すのも嫌がる人は多いと思うのですが、
「マルクスの理論が現代社会の変革にとっての最強の理論的武器」だと
佐々木は力強く言い切ります。
その潔さに引き寄せられて本書を読み進めたところ、
最近の新書には珍しく、よく考えて書かれた力作だと感じました。

研究者の書いたマルクス本というと、小難しいイメージがありますが、
佐々木はマルクスの生涯を伝記的に描きながら、
それと平行してマルクスの思想がどのような変化をたどったかを、
一般読者を想定した語り口で明晰に語っています。

マルクスを古い権威として頼るところもなく、
新たな思想家を紹介するような書き方をしていることに好感が持てました。

第1章は1818年から1848年までを扱っています。
青年ヘーゲル派との関係やジャーナリストへの転身、エンゲルスとの出会いなどが描かれます。
第2章は1848年から1867年までで、ロンドン移住後に書かれた『資本論』を取り上げています。
第3章は『資本論』脱稿後の1867年から1883年の晩期マルクスの思想の変化を取り上げます。

僕は佐々木の熱量を感じさせる語りが気に入りました。
「フォイエルバッハ・テーゼ」のマルクスの啓蒙主義批判を佐々木はこのように語ります。

 なんらかの「正しい理念」を主張し、それによって人々の
 誤った意識をただすという方法では社会を変革することは
 できない。むしろそうした意識を生み出す現実世界のあり
 方、現実の世界や労働のあり方こそを理論的に分析し、変
 革しなければならない。
  しかも、啓蒙主義は社会変革にとって有効でないという
 だけではない。むしろ害悪にさえなりうる。どれほど「現
 実」や「人間」を主張しようとも、啓蒙主義は現実の社会
 になんらかの理想を対置することで満足し、現存の社会シ
 ステムを具体的に分析しないからだ。

マルクス当人はもう少しあっさり書いている気がするのですが、
佐々木が語ると熱量が増す感じがして非常に好ましく感じます。
既存の権威の中で理論を弄んでいる輩が変革の害になるのは当然のことではありますが、
それを打ち破るには現状分析と批判のための熱量も必要です。

『資本論』についての説明も少ない紙幅でうまくまとめています。
労働価値説が今でも有効であることが確認できますし、
労働時間の延長や経済的停滞がなぜ起こるのかを考えるのに
『資本論』が「理論的武器」となることがわかります。

本書の目玉は晩年のマルクスの思想を書いた第3章でしょう。
佐々木によれば、晩年のマルクスは「恐慌革命論」を撤回し、長期的な改良闘争を重視するようになったようです。
(そのため、佐々木はソ連型の生産手段の国有化や計画経済を資本主義の変形と断じています)

書物として発表されていないマルクス晩年の思想を考えるために、
佐々木が研究しているのがマルクスの「抜粋ノート」というものです。
「抜粋ノート」はマルクスが読んだ本の一部を引用し、それに注釈をつけたものだそうですが、
その足跡からマルクスの思想を解き明かす作業によって、
マルクス思想の全体像がはじめて浮かび上がると佐々木は述べています。

「抜粋ノート」によると、
マルクスは人間より生産物の関係が主役となった物象化という現象に対抗する
自由なアソシエーションを築く主体を形成するために、
労働時間の短縮やジェンダーの問題を考えていたようですが、
中でも佐々木が注目するのは「物質代謝」という概念です。

マルクスは生理学で有機体の循環的な生命活動を表す「物質代謝」という考えを学び、
それを生産から消費への経済的循環だけでなく、
人間と自然との物資的循環にも用いるようになりました。
今で言うエコロジーの観点がマルクスにもあったようなのです。
特に、資本が物質的循環を乱すことを問題にしていました。

このあたりが最近のマルクス研究の成果だと思われます。
これまでのマルクス像からすれば新しいものに思えるので、
学問研究としては大いに意義のあることだと思います。

しかし、僕のようなアカデミズムと無関係な人間からすると、
少し肩すかしのような気分になることは否定できません。
エコロジーやジェンダーなどで資本主義に対抗するという視点は、
マルクスを抜きにすれば特に新しくもないからです。
(そしてたいした効果も期待できません)

自然の循環を資本が破壊しているという危機感から、
前近代的な共同体の見直しを模索するというのなら、
なにもマルクスを持ち出すまでもなく、ジブリのアニメでも良さそうに思えます。
もちろん新書という形式のため概観を述べるにとどまっているのでしょうから、
この先の研究の進展によって僕の懸念が払拭されることを願っています。

 

 

 

『神話・狂気・哄笑──ドイツ観念論における主体性』 (堀之内出版) マルクス・ガブリエル 著

  • 2016.04.24 Sunday
  • 07:37

『神話・狂気・哄笑──ドイツ観念論における主体性』

  (堀之内出版)

 マルクス・ガブリエル 著/飯泉 佑介 他訳

   ⭐⭐⭐⭐⭐

   責任主体を空洞化する思想の見直しこそが急務

 

 

日本では現代思想といえばフランス思想と相場が決まっています。
東京大学がフランス思想研究に偏っていることが原因のひとつですが、
「(近代的な)主体の死」を主体の無責任化に利用する
日本的〈フランス現代思想〉受容の弊害をそろそろ問題視するべきでしょう。

日本の近代以降の文学を丁寧に読んでいけば理解できるのですが、
日本の疑似近代的個人は社会的責任から逃走する私生活主義(オタク化)によって形成されています。
自分だけの個室にいるときだけ共同体から自由な個人が実現します。
(逆に言えば共同体の中では前近代性が露出します)
その意味で「(責任)主体の死」や社会からの逃走を肯定した〈フランス現代思想〉は、
日本においては近代文学の延長に位置づけるべきものです。

個室による私生活主義は核家族化が進んだ80年代バブルの時期にスタンダードになりました。
(今はスマホさえあればどこでも個室=個人です)
社会から隔絶した個室でメタ化した「非在の自己(透明な自己)」は、
おのれと等価な非在の存在である社会(世界)を鏡とすることでしか「非在の自己」を確認できないために、
絶えず社会(世界)の変化(流行)を追いかけて「非在の自己」が脱落しないように努力をする逆説に陥ります。
ヘーゲル的な自律的な主体が他律の脅威を排除するために反省を繰り返すならば、
日本的疑似個人は個室環境によって他律を排除した結果、流行の参照を繰り返すことになるわけです。

近代の個人が自らの内面で主体を確立しようとしたのに対し、
日本的疑似個人はテクノロジーによる環境形成によって、
責任主体ならぬ欲望主体、自己充足的なナルシス主体を生み出しました。

そのような人々に〈フランス現代思想〉が歓迎されたのは偶然ではありません。
欲望充足的な主体は「ポストモダン的」と言われてもてはやされました。
近代的精神を形成し損ねた日本の後進性は、
「主体の死」を価値とする思想によって先端性にすり替わったのです。
それがバブルを背景にした「敗戦の克服感」と結びついて、
日本人のナルシシズム(ナショナリズム)を強化する結果になりました。
(共同体や政治的なものからの逃走が、国の戦争責任からの逃走にも結びつくのは必然です)

本家の〈フランス現代思想〉はヘーゲル的な主体を、差異を同一性へと解消する「自己満足な主体」と捉え、
そのナルシシズムを批判するために差異を称揚したのですが、
驚いたことに、日本では口先では外部への志向を謳いながら、
実際は他者との社会的葛藤から逃走することによって、
ナルシシズムを強化するという真逆の行為に利用されたわけです。

その意味で本家のフランス現代思想と日本のフランス思想受容を、
分けて考える必要があると思います。
そうでないと、なぜ日本では〈フランス現代思想〉がモラトリアムやサブカル的な人に受容されるばかりで、
実社会においてプレゼンスがないのか理解できないのではないでしょうか。

欲望主体を支える私生活主義は消費文化と親和的なので、
〈フランス現代思想〉が「売れる」人気の思想として流通しました。
こうして文学や思想が単なるファッションに成り下がったのです。

さて、日本で今話題のファッションといえば、カンタン・メイヤスーの『有限性の後で』です。
雑誌「現代思想」など「売れる」〈フランス現代思想〉の維持を必要とする保守的な人々が、
思弁的実在論を次のモードとして猛烈プッシュし、
日本的疑似近代の差異なき反復に勤しんでいます。

こういう動きに批判的な視座を与えてくれるのが、
マルクス・ガブリエルとスラヴォイ・ジジェクの共著である本書です。
本書が「ドイツ観念論における主体性」という副題を持っているのは、
「主体の死」を推進する勢力への異議申し立てと考えなければなりません。
実際、本書でマルクス・ガブリエルはメイヤスー批判を展開しています。
彼はメイヤスーの主体不在の実在論を批判しています。
主体不在の世界を考えるだけでは、その世界からどうして主体的言明が生じたのかを説明できないからです。
ガブリエルは人間の主体的な言明を可能にする世界の構造を明らかにする新しい存在論を考えています。

その意味で興味深かったのは、最後に付録として収録された
「世界はなぜ存在しないのか」というガブリエルの講演です。
ここの内容はドイツでベストセラーになったガブリエルの著書
『なぜ世界は存在しないのか』(未邦訳)の予告編として読むことができます。

ガブリエルは世界を対象として同定できないことから、
世界を世界として考察する絶対的な立脚点はありえず、
「世界は存在するのではなく、性起するのです」と述べています。
世界は「世界」という把握対象としては現れず(世界は存在しない)、
「非在」であることでそれ以外のすべてが現れるようにするのです。
ガブリエルが「非在」としての世界を考えていることは非常に興味深く、続刊の翻訳が待たれます。

本書の題名は『神話・狂気・哄笑』となっていますが、
この三つのキーワードはそれぞれの章立てと対応しています。

「神話」はガブリエルが書いた第一章に対応します。
ガブリエルは反省によって普遍概念にすべてを包括するヘーゲルの反省論が、
必然性の高階にある偶然性という前論理的領域を認めていないと批判します。
そのヘーゲル的反省の外にある領域にアクセスするものが後期シェリングの「神話」概念です。
ガブリエルは科学主義に代表されるイデオロギー的な神話を退けるために、
前論理的領域に開かれた新しい神話学を提唱し、
有限性に基づいた世界構成の前論理的な偶然性を取り戻そうとしています。

ガブリエルはメイヤスーの論を「必然性を再設定するイデオロギー的振る舞い」に近いと批判し、
反省という神話的な存在によって有限性をふまえた偶然性を強調しています。

 我々は、「我々自身ここに存在すること」に向き合うために、
 表現の有限性と、あらゆる枠組みが持つ抹消できない偶然性
 を承認する必要がある。我々は、この有限性を率直に認めな
 ければならない。というのも、有限性の外部の立場、あるい
 は、有限性の後の立場をとることはできないからだ。

こうしてガブリエルは「無制限な高階の偶然性」が反省の偶然性であることを強調します。
「世界なるものは存在しない」という彼の言葉は、
世界の必然性は内的な規定性によってもたらされるだけで、
その外部に世界を規定する必然性があるというわけではないことを示して、
ドイツ観念論の一般的な理解を改める試みをしています。

あとの2つのキーワードは後半のジジェクの論考に関わります。
この論考も興味深いのですが、長くなりすぎたのではしょります。
『狂気』の方は第二章にあたり、ヘーゲルの「狂気」と「習慣」をラカン的に読むというものです。

ラカンはフランス構造主義に位置づけられたりしますが、
レヴィ=ストロースが「ラカンは内緒で主体を取り入れようとしている」と批判したように、
他の構造主義者たちのように主体を破棄したりはしませんでした。
そのあたり、主体性を見直す上でラカンが登場するのも不思議ではありません。
また、ラカンの「欲望」概念のベースには、
ヘーゲルの『精神現象学』にある「主人と奴隷の弁証法」の影響が指摘されています。
ジジェクは主体にあいた穴である「狂気」を覆い隠すものとして「習慣」を捉えていますが、
このような論考が書かれる学問的必然性はありそうです。

『哄笑』にあたる第三章は、「絶対的観念論者」と思われているフィヒテを道徳的観念論者として捉えています。

 フィヒテにおいては、有限なものと無限なものの綜合は、
 有限な主体の無限な努力において与えられており、絶対的
 自我それ自身は、「定立的」な実践的で有限な主体の仮‑定
 [hypo-thesis]である。

こうジジェクが述べるように、フィヒテは主体の有限性に焦点を当て、
実践による非我との闘争という道徳的立場によって独我論を批判しています。
「独我論の乗り越えが可能なのは理論的な立場からではなく、実践的な立場からである」
一般にはカントからヘーゲルに至るドイツ思想は、「ドイツ観念論」と称されますが、
単に観念論と捉えるだけの理解がいかに表層的であるか、
雑誌「ニュクス」の第2号と合わせて読むとよくわかります。

多様性という点でフランス思想以外が注目されるのは喜ばしいことですが、
門外漢の読者である我々は、これらドイツ系の思想の「日本的受容」に用心する必要があります。
既得権を持つフランス思想関係者はマルクス・ガブリエルを自らを脅かすことのない思想へと読み替えるにちがいないからです。

そのための指針として、
「主体性」と「有限性」と「反省」について触れているかどうかが重要になります。
なぜなら、「実在論」や「偶然性」だけを取り上げることで、
他者性を排除するのが伝統ある「日本的受容」というものですから。
(毎日新聞の斎藤環の書評はその恰好の例といえるでしょう)

ドイツであろうがフランスであろうが、
西洋思想を学ぶときに「日本という悪い場所」を考えないことは問題です。
たとえば西洋における「外部」には神学的・形而上学的ニュアンスが含まれますが、
日本においては短絡的に「死」へと接続する可能性を無視できません。
(なぜ西洋人がバンザイ岬やカミカゼに驚愕したか考えてみてください)
それが共同体内部における個室空間を「外部」へと読み替える余地を残すことになります。
「外部」や「他者」ひとつとっても土壌の違いは厳然と存在します。
テキスト読解を言い訳に、土壌の差異を真剣に考えずに思想を語ることは、
「日本的受容」という保守的な精神を育むだけに終わることでしょう。

 

 

 

評価:
マルクス・ガブリエル,スラヴォイ・ジジェク
堀之内出版
¥ 3,780
(2015-11-27)

『テロの文学史』 (太田出版) 鈴村 和成 著

  • 2016.04.12 Tuesday
  • 23:30

『テロの文学史』 (太田出版)

  鈴村 和成 著

 

   ⭐

   自殺もテロ、暗殺もテロ、ナチスもテロ、ランボーの詩もテロ詩という世迷い言

 

 

この本はこれまで僕がレビューしてきた中でも最低の内容でした。
僕は購入した本は儀礼の意味もあって最後まで読むことにしているのですが、
この本は第珪楼聞澆鯑匹泙覆い海箸砲靴泙靴拭
途中で断念を決めた本は数年ぶりです。

大部分で鈴村の独りよがりの思い込みにつきあわされます。
そもそも、三島由紀夫の自殺がなぜテロだといえるのか、
それについての説明がありません。
「11.25自決テロの三島由紀夫」って、「自決テロ」ってなんでしょうね?
自分でテロといえば何でもテロになるという恐ろしい文学者テロです。

45ページに「テロの定義」と題した部分があるのですが、
まったく明確ではありません。
鈴村が重視するのは「〈主義、主張〉の有無」らしいのですが、
そうなると池田小学校の事件も酒鬼薔薇の事件もテロということになります。
定義の中に「対象の無差別性」がないのはどうしてでしょう?
テロは誰が狙われるかわからないから怖いのではないでしょうか。
このあたりの考察がいいかげんなために、
鈴村のテロの指定は恣意的きわまりないものとなっています。

ここから僕が納得できなかった記述をあげていきます。

鈴村は三島由紀夫の生首とISISの捕虜の生首をパラレルだとし、
「まるで「イスラム国」は三島由紀夫の生首を模倣したかのようである」
などと書いています。
生首という共通点を重ねただけの牽強付会で、
よく詩人を名乗れるな、と感心してしまいます。

そもそも三島由紀夫の自決自体に2.26事件の模倣の要素を見るべきです。
(当然そのような指摘もされています)
パロディから生じた可能性が指摘される三島の生首をプロトタイプだと言うのですから、
センスがないとしか言いようがありません。
(それから「イスラム国」という記述が問題になったことを鈴村は知らないのですかね)

鈴村は2.26事件もテロとしていましたが、
通常はクーデターという定義になると思いますよ。

ミシェル・ウエルベックの作品を適当に解釈しているのも不愉快でした。
ゴンクール賞をもらってからウエルベックのことを語り出したフランス文学関係者を、
僕はまったく信用していないのですが、
「ウエルベックは『プラットフォーム』で〈イスラム原理主義vs西洋〉の断面を描いたのである」
などというまとめは杜撰だと思いました。

それだとウエルベックは西洋の方に立ってイスラムと対決することになってしまいます。
ウエルベックのどの作品にも共通するのは西洋文化に対する幻滅です。
そんなことも読み取れずにウエルベックを語る人が、
いかに注目作家に乗っかりたいだけかすぐにバレてしまいます。

『プラットフォーム』が出版当初に物議を醸したのは、
買春ツアーのスキャンダル性においてであったはずです。
イスラムのテロはそれほど作品の中心にはありませんでした。
遅れてきた読者はそういうこともよくわかっていないのでしょう。

鈴村のウエルベック『服従』についての解釈もひどすぎるので書いておきます。
『服従』はフランスにイスラム政権が樹立するという話ですが、
鈴村はイスラム教とイスラム過激派のテロリストを明確に区別しないのです。
これはイスラム教徒への侮辱ではないでしょうか?

主人公のフランソワの恋人ミリアムはユダヤ人であるため、
イスラエルへと移住していくのですが、
鈴村は「この長編のテーマは『プラットフォーム』と同じ、
イスラム過激派とそのテロリズムへの恐怖だったのである」
と書いています。
「しかし今回のウエルベックは、イスラム原理主義の支配する
恐怖の新世界に、一見して幸福な解決策を見出した」
とも書いていますが、
ウエルベックはイスラム教のまっとうな政党が選挙で勝つ話を書いているので、
「イスラム原理主義が支配する恐怖の新世界」を描いているわけではありません。
鈴村に「イスラム教=テロの恐怖宗教」という思い込みが強いのがわかります。
(それでいてイスラエルがパレスチナにしていることは考えもしないのでしょうね)

またフランソワがイスラムへの改宗に踏み切るところを、
「換言すれば、これは洗脳の体験といってよい」と書くあたりも偏見に満ちています。
どうして自ら改宗を決意することが「洗脳」なのでしょうか?
そもそもこれが「洗脳」であれば題名の「服従」と整合性がなくなります。

西洋崇拝者の鈴村のイスラム蔑視は非常に不愉快ですが、
ウエルベックはむしろ西洋に幻滅した逆ベクトルの作家です。
そのニヒリズムも理解できず西洋中心主義で彼の作品を読むというのは、
いかに名誉教授の肩書きがあろうが問題視すべきものだと思います。

また、川端康成がノーベル賞をもらって作品が書けなくなった、とか、
三島由紀夫がノーベル賞を逃して自殺をしたとか、
ノーベル賞に価値を置きすぎた俗物的な発想で、彼らに失礼です。
川端はあんな短い『雪国』を完成させるのに12年をかけています。
長編と言える作品もほとんどなく、連作短編形式がほとんどというスタイルです。
川端の遅筆や自殺は作品創作上の必然として彼の作家生涯をふまえて考えるべきものだと思います。
(身内や仲間に次々と死なれた川端が晩年に俗世離れした「魔界」に足を踏み入れた作家であったことは、
川端の研究者の多くが指摘していることです。もう少し勉強しましょう)

他にもいろいろ問題があるのですが、
正直書くのに疲れたのでこのくらいにしておきます。
他のレビュアーが星5つなので、この本の批判をすると何かありそうですが、
ダメなものはダメだと言うしかないと思います。

 

 

 

評価:
鈴村和成
太田出版
¥ 2,700
(2016-01-30)

『マルクス思想の核心 21世紀の社会理論のために』 (NHKブックス) 鈴木 直 著

  • 2016.04.12 Tuesday
  • 22:07

『マルクス思想の核心 21世紀の社会理論のために』

  (NHKブックス)

  鈴木 直 著

   ⭐⭐⭐

   マルクス思想のアップデート?

 

 

ソヴィエト社会主義体制の崩壊以後、
「マルクス主義」は後ろ盾を失って衰退しました。
左翼系の学者は文化サヨクに転向し、消費文化に耽溺しました。

しかし、今や資本主義は行き詰まりを迎えつつあります。
そこで対抗思想が必要とされているわけですが、
ふたたびマルクスに可能性を見出そうとする人々が現れてきました。

本書も「21世紀の社会理論のために」とあるように、
マルクス思想を未来志向で組み立て直す試みとなっています。
「マルクス経済学」という狭い領域を越えて、
「マルクス思想」へとアップデートをはかるのが鈴木の狙いです。

それでは鈴木が考える「マルクス思想」の核心とは何でしょうか?

マルクスは1973年のフランスの憲法第6条にある「自由」を批判しています。
「自由とは他人の権利を侵害しないかぎり、なにをしてもいい」というのがその内容ですが、
マルクスは「人間と人間との結びつきよりも、むしろ人間と人間との隔離に基礎を置いている」ものと考え、
「ユダヤ人問題によせて」で次のように書いています。

 いわゆる人権は、どれをとっても、エゴイスティックな人間、
 市民社会の成員としての人間、つまり自分自身へと引きこもっ
 た個人、自分自身の私的な利益と恣意とに引きこもって、共同
 体からは隔離された個人、そういう人間を越え出るものではな
 い。いわゆる人権の中では、人間は類的存在と捉えられるどこ
 ろではない。

マルクスが自由によって人々が疎遠になると考えていたのは興味深いのですが、
鈴木が重視するのは、人間が他者との相互行為の中で「類的存在」となりうるというマルクスの共同体主義です。
「類的存在」とは個人と共同体が調和を保っている人間本来のあり方のことですが、
この類的存在としての人間の解放がマルクス思想の核心にあたるようです。

マルクスが賃金労働という労働力の商品化を批判したのは、
類的存在の実現を不可能にするからだ、と述べる鈴木は、
類的存在としての人間の土台の重要性を考慮するために、
大胆にも労働価値説を再評価しています。
商品価値を労働量から説明する労働価値説は、
これまで岩井克人をはじめ多くの論者から誤りとされてきたので、
なかなか挑戦的だと思いました。

鈴木はハッキリと名指ししていませんが、
疎外論より価値形態論を重視した柄谷行人に対しても批判的に思えます。

価値形態論とは、マルクスが資本論の最初で貨幣の由来を商品交換から説明した部分のことですが、
鈴木はその価値形態論に欠陥があるとしています。
等価交換を示す等号をマルクスは数学的に使用し、右辺と左辺の入れ替えをしますが、
鈴木はその入れ替えには交易関係の成熟という現実要因が必要だと主張します。
結果、両辺の入れ替えは「観念的な抽象性」によって決定されないとして、
その哲学的側面に偏ることに注意を喚起しています。

ここまではマルクス思想のアップデートとして興味深かったのですが、
困ったのは、最終章になってどんでん返しがあることです。
鈴木は賃金労働によって人間から類的本質が失われる、というマルクスの主張をひっくり返し、
類的本質こそが資本主義の能動的制作者だったのではないか、と述べます。
被害者だと思っていたら、実はそれが悪玉だった、という展開です。
鈴木はマルクスの「認識上の錯誤」とするのですが、
そう言われても、僕には混乱が残るばかりでした。

ラストに国際金融システムをより上位のシステムで統制する構想が語られますが、
それを作る権力をどこから担保するかという話がないので、
リアリティのない話に終わっています。
これが結論ならば、これまでのマルクスの話はなんだったのか、
という疑問がどうしても拭い去れませんでした。

 

 

 

『鎌倉幕府と朝廷〈シリーズ日本中世史 2〉』 (岩波新書) 近藤 成一 著

  • 2016.04.06 Wednesday
  • 21:56

『鎌倉幕府と朝廷〈シリーズ日本中世史 2〉』(岩波新書)

  近藤 成一 著 

 

   ⭐⭐⭐⭐

   幕府と朝廷の並立体制の成立

 

 

日本中世史シリーズの第2巻の本書は、
鎌倉時代幕府の成立から滅亡までを扱う鎌倉時代の通史です。

通史といっても題名にある通り、政治体制に焦点が集中しています。
庶民生活や鎌倉仏教については取り扱っていません。
モンゴル戦争については一章を割いていますが、
素人が全貌を知るには外交に重点がありすぎて不向きです。

新書サイズなので政治体制に限定しているのは理解できます。
そのため、買う方は自分の興味に合致しているか気にした方が良いでしょう。

鎌倉時代は幕府と朝廷の並立体制が始まった時代です。
明治になるまでこの体制が維持されるほど日本人には浸透したものです。
(現在の日本政府とアメリカ政府との関係にも影響しているかもしれませんね)

源氏将軍が三代で絶たれた後は、九条家の摂家将軍、皇族の親王将軍と続くことで、
二つの権力がダイレクトに関係を保っていたことがわかります。
面白いのは、幕府は北条家の得宗、朝廷は院政とどちらも「影」に実権があるということです。
これは僕個人の感想ですが、この構造の上位に、
朝廷の「影」で実権を握る幕府という構造が成立したのかもしれません。

本書は鎌倉時代の裁判についても詳しく書かれています。
荘園の管理は従来、荘園領主(本所)のもとで下司が行っていたのですが、
源頼朝が地頭を設置したために、下司が地頭に置き換わっていきました。
それまでは本所は下司に不満があれば解任などで解決できたのですが、
それが地頭となると幕府に訴えなくてはなりません。
そのため所領をめぐる裁判が数多く起こったようなのです。

『十六夜日記』を書いた阿仏尼が裁判のために鎌倉に向かったのは有名な話ですが、
鎌倉時代の裁判の重要性は直接に政治体制の問題に端を発したのだとわかり、
非常に勉強になりました。

その地頭の設置を朝廷が認めたことが幕府成立の基盤になったわけですが、
どうやら源義経の討伐時の期限付きの臨時処置だったみたいです。
緊急事態の一時的処置が常態化するというのは、
本当に権力者の常套手段だなと感じました。

 

 

 

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