「現代思想 2015年9月号 特集=絶滅 -人間不在の世界-」
(青土社)
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千葉雅也のための雑誌?
「絶滅」という特集タイトルで、執筆者に生物学者の名前も見えますが、
「人間不在の世界」というサブタイトルを見たときに、
どうせメイヤスーの話がしたいんだろう、と感じました。
読んでみると案の定でした。
どうしてこの雑誌はこんなにメイヤスーを取り上げるのでしょう?
著作の邦訳も出ていない思想家の思想を、一般誌がこれでもかと取り上げるのは不自然です。
(ピケティだって邦訳が出る前の特集は限られたものでした)
そもそもメイヤスーの翻訳をするであろう千葉雅也の出番が多すぎます。
1月号にインタビューで登場し、5月号と今回の9月号は対談で出ています。
(論考以外の楽な仕事が多いのも優遇に見えてしまいます)
登場はしていなくても、6月号は思弁的唯物論の特集でメイヤスーが取り上げられています。
同じ人ばかりを起用するのは、一般誌としては望ましいことではないと思います。
実際、同じ人ばかりを起用するなと教育しているマスコミはあります。
たとえ編集部と千葉のあいだに何もなくても、癒着を思わせるような紙面作りは問題があると思うのです。
次号のLGBT特集やその次の大学文系の危機特集も千葉の関心領域であるのはまちがいありません。
これは下種の勘ぐりなのでしょうか?
たとえそうであっても、このような指摘がされないように、
同じ人ばかり起用することは避けるべきなのではないでしょうか。
「現代思想」は誰に向けて編集されているのか、
僕はそのことに疑問があるのです。
今回の「絶滅」特集は、進化論を絶滅の観点から脱構築する吉川浩満『理不尽な進化』を受けたものでしょうが、
思弁的実在論周辺の書き手であるブラシエ、サッカーなどの論考と、
生物学者や人類学者の論考は問題意識に共通性があるように思えませんでした。
そもそも後者は絶滅に触れてはいても、明らかに進化のテーマから論を展開しています。
結局どっちがやりたいのか、とフラストレーションがたまる構成でした。
もはや特集はテーマではなく検索ワードのレベルだということでしょうか。
「絶滅」をキーワードでしかないと考えればバラバラな論考も包括できます。
2月号の「反知性主義」も6月号の「唯物論」もそんな感じでしたね。
それからブラシエの論考は面白いところはありましたが、
著作の中の1章だけを取り出して訳すのは中途半端だと思いました。
全体の議論に関心があれば他の章にあたるように言われても、
そもそも原書が読める人はこの半端な翻訳を読まないと思います。
千葉と吉川と大澤真幸の対談はメイヤスーについての話がほとんどでした。
何のために吉川を呼んだのか大いに疑問が残る内容でしたが、
メイヤスーの原書を読んだことのない多数派の読者にとっては、
面と向かって千葉に反論する人が現れたおかげで、
評価の難しい思弁的実在論の気の早い権威化を避ける意義はあったかもしれません。
「未来の他者」を倫理の源泉と考える大澤にとって、
人類の「絶滅」に近しい視野を持つメイヤスーに反論するのは当然でしょう。
相関主義批判というかたちで人間中心主義を批判するのは簡単ですが、
これまで人間は人間のための社会を構成してきたわけで、
相関主義を投げ捨てることはある種の義務(特に倫理)からの解放を意味します。
僕が危惧するのは、相関主義批判は簡単にメタな位置に立つことができるために、
社会性や倫理を括弧に入れた資本の欲望を代弁をすることになるのではないか、ということです。
〈フランス現代思想〉は新自由主義と親和的だと僕は何度かレビューに書きましたが、
メイヤスーの師匠筋が毛沢東主義者であっても、その疑念は拭い去れません。
大澤は世界に内在する視点と世界の外部の視点の両者(「経験的=超越論的二重体」)の緊張が大事だとしていますが、
このような議論を聞いていると、柄谷行人の村上春樹批判を思い出します。
柄谷は春樹の作品を超越論的自己による経験的自己の軽蔑と整理していました。
このようなメンタリティはインターネットの隆盛によって一般化しました。
現実の人の迷惑になろうが、スマホに没頭して障害物化している人々など、
すでに半分は人間をやめているように感じます。
「絶滅」とは種の絶滅ではなく、「現実」の絶滅として考えた方がリアリティがあるのではないでしょうか。
しかし、メイヤスー(というか千葉?)は屈託なくメタの方に立ついわば「ガキじみた」思考を展開しています。
(これも資本による哲学の「絶滅」の序章なのでしょうか)
ポストモダンがそうであったように、
日本の保守がそうであるように、
衰退局面にあるカント的な相関主義を仮想敵として依存しながら、
自らを「旧レジーム」から脱却する位置に置く欺瞞はもうたくさんです。
だいたい東浩紀にしても千葉雅也にしても、
否定神学に反対するなら靖国神社に反対でもしたらいいと思うのですが、
権力との軋轢から逃げて商業主義に乗るしか能がないということなのでしょう。
商業的な「思想」というニューアカの残滓をむさぼり続ける若手学者を、
スターのようにチヤホヤするのは出版社の戦略です。
僕は多くの出版社が思想を飯のタネとしか考えていないことに問題があると思っています。
後期デリダが政治的になっていったように、
メイヤスーはいずれ相関主義批判から撤退していくと予想しています。
一応は「唯物論」を表明していますし、資本の手助けをする気持ちは本人にはないはずだと想像するからです。
そのとき出版界は千葉から別の乗り馬に鞍替えをしているのでしょう。
挑発的なことを書くとまた文句を言われるので、このあたりでやめましょう(笑)
まあ、最新の思想モードについていけない奴は買わなければ良いということでしょうから、
僕も今後この雑誌を買う気はないのですが、
最後に雑誌「現代思想」は栗原一樹がダメにしたと書いておきたいと思ってペンを取りました。
栗原は編集長になってから、やたらジャーナリスティックな特集ばかりしていました。
看板ばかりの「現代思想」が長く続きました。
この雑誌がやたら「新しい」を価値にしているのも、
栗原がジャーナリスティックな感性で思想を考えているからでしょう。
僕には栗原が思想オンチなのではないかという疑惑がぬぐえないのです。
そうだとすれば思想寄りのスタンスをとったとたん、
特定の研究者に影響されすぎることにも納得できるのです。
実際はそうではなくて、僕が失礼なだけなのかもしれませんが、
読者にそのような疑念を抱かせるような紙面作りをしたと謙虚に感じていただければ幸いです。
追記(11/9)
千葉雅也のツイートです。
『現代思想』新年1月号、お楽しみにね。来年も僕が企画に加わった内容になります。翻訳も刺激的なのが多数。
6:53 - 2015年11月4日
僕の想像はそれほど間違ってなかったようですね。
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評価:
吉川浩満,千葉雅也,大澤真幸,池田清彦,長沼毅,三中信宏,マイク・デイヴィス,小泉義之,レイ・ブラシエ,ユージーン・サッカー
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¥ 1,404
(2015-08-27)
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