「現代思想 2015年6月号 特集=新しい唯物論」(青土社)

  • 2015.06.19 Friday
  • 11:48

「現代思想 2015年6月号 特集=新しい唯物論」

(青土社)

 

   ⭐⭐⭐

   新しさの一元論

 

 

過去3年の1月号の特集を見てもわかるとおり、
この雑誌はとにかく「新しい」ことを価値として押し出しています。
もはや「新しい」以外に宣伝文句が思いつかないかのようです。

いや、「ニューアカ」と言っていた時代から、思想は「新しい」ことが価値だったのでしょう。
いや、中村光夫が「移動の時代」の中で指摘したように、
明治から日本は西洋の流行を追いかけて、蓄積もなく新しさへと「移動」をしていたのかもしれません。
(こういう「移動」をノマドだと言ってしまうとナルシシズムに陥ります)

さて、今回は「新しい唯物論」という特集ですが、
(ポスト・ポスト構造主義という呼び名はやめたんですね)
大きく思弁的実在論の流れとニューマテリアリズムを視野に入れています。

思弁的実在論にしても思弁的唯物論にしても、
実在論とか唯物論とか名乗ってはいるのですが、
「思弁的」であるという点で、マテリアリズムと同列に扱えるのか疑問が残ります。
(このあたりは本誌所収の江川隆男の論考が参考になりました)

ちなみに、僕は清水高志に「現代思想」の1月号のレビューなどについてツイッターで、
「「佐野波布一」っていう人、「サノバビッチ」のつもりなんだろうけど、本当に適当だよなー。。
思弁的実在論とか「フランス現代思想」でもなんでもない(むしろアメリカ)なのに勝手にフランス!フランスと叫んで罵ったり」
と書いてもいないことで文句を言われたのですが、
(僕は思弁的実在論がフランスだなどと書いていません)
そのわりに清水の言うことも適当なところがあります。

「思弁的実在論(SR)」といえばグレアム・ハーマンが中心なのでアメリカだといえるでしょうが、
たしかハーマンは「唯物論なき実在論」という論文を書いていたはずです。
それに対してメイヤスーは自らの思想を「思弁的唯物論」としています。
そうなると、「新しい唯物論」という特集をする本誌のスタンスは、
ハーマンよりメイヤスーに寄ったものだとハッキリ言えると思います。

フランス人のメイヤスーを中心に置いているかぎり、
〈フランス現代思想〉の延長として捉えるのは不自然ではないと思います。
(ただ、僕はそんなことは書いていないのですが)

僕は日本におけるフランス思想のヘゲモニーを問題視しています。
思弁的実在論と言いながら、メイヤスーを中心に据えるかぎりは、
フランス思想のヘゲモニーを保存するだけに思えます。
ちなみに今月号の論考には僕はほぼ全部目を通しましたが、
「ドゥルーズ」という名前が一番多く登場していましたよ。

千葉雅也も6月12日のツイッターで、
「逆行すること。Amazonがレビュー制度を廃止したら英断だろう。」
とか言論抑圧への欲望を表明していますが、
清水にしても千葉にしても、
自分に批判的な言動を抑圧しようという態度はインテリにあるまじき態度です。
僕には百田尚樹や安倍晋三とたいして変わらない権力側の発想に思えます。
いかに〈フランス現代思想〉研究者が既得権を守る保守的な心性に凝り固まっているか、
自ら証明しているようなものです。
この雑誌は彼らを好んで使いますが、人格的に問題がないか考えて起用してほしいものです。

横道にそれてしまいましたが、
僕の印象では、メイヤスーの思弁的唯物論は唯物論に重点があるように思えません。
〈フランス現代思想〉の反人間主義をさらに推し進めるのが関心に思えます。
(しょせん素人の適当な感想ではありますが)
メイヤスーは相関主義と主観主義に反対しているようなので、
人間と無関係なものへと思想を展開したいように感じます。
そういうものを「唯物論」というので、数学まで唯物論になっていくわけです。

インタビューでも訊かれていましたが、
関係性の外にある事実存在と考えると、やっぱりハイデガーが思い浮かんでしまいます。
メイヤスーはハイデガーは相関主義だと切り捨てていましたが、
徹底した反人間主義は人類の滅亡を夢見るウェルベック的なニヒリズムに通じますし、
そういう文学的反動を思想的に徹底するとハイデガーの轍を踏むことになりかねません。

「新しい」ものが良いか悪いかは後にならないとわからないものです。
そのためのヒントは歴史を学ぶことにあったはずなのですが、
ポストモダンが非歴史性に耽溺したために、今やそれも期待できません。

 

 

 

評価:
磯崎新,藤原辰史,篠原雅武,北野圭介,Q・メイヤスー,M・デランダ,E・サッカー,A・ギャロウェイ,藤本一勇,江川隆男
青土社
¥ 1,404
(2015-05-27)

「文学界」2015年7月号 (文藝春秋)

  • 2015.06.10 Wednesday
  • 11:39

「文学界」2015年7月号

  (文藝春秋)

 

   ⭐

   そもそも出版社に知性が見られない

 

 

僕は「反知性主義」関連本の批判レビューをいくつか書きましたが、
こう次々と現れてくると、
モグラたたきでもしている気分になります。
(もう最後にしようと思っています)

「反知性主義」という言葉が出版界で流行していますが、
この言葉に明確な内実はありません。
漠然と自らが「悪」と感じるものを「反知性」と名指しして、
それを攻撃したり排除することで、
自らの心の平安を求めるための非知性的な言葉です。

問題をしっかりと認識せずにレッテル貼りをするという点で、
この言葉は問題解決を意図してはいません。
ただの「鬱憤晴らし」の要求に応えているだけです。

この言葉が動員のための言葉として使われるのではないか、と
僕は内田樹『日本の反知性主義』のレビューで書いたのですが、
今号の特集「「反知性主義」に陥らないための必読書50冊」で、
とうとう「反知性主義」が動員のための言葉として利用されました。

その意味では、動員された50人の知性には疑問を感じますが、
全員の書いたものを読んでみると、
中には単なるエクスキューズではなく、
批判的知性を持って書いている人もいます。

たとえば池内恵はこんなことを書いています。

 「反知性主義」が日本の出版業界のちょっとした流行りとなって
 こんな依頼が舞い込んだのだが、世に出る「反知性主義関連本」
 の著者はというと、どう考えてもまさに反知性主義者そのもの、
 といった面々が並ぶ。反知性主義に陥りたくなければまず、声高
 に他人を「反知性主義」と罵っているような人々の名前で出た本
 は読まない、というところから始めることが鉄則だろう。
  今手にとっておられるこの雑誌を出している出版社だって、私
 から見れば数多くの反知性主義本を出し続けている。

池内は「反知性主義」という非知性的な言葉を垂れ流す出版社が、
むしろ知性的といえない存在であることを示唆していますが、
原稿を依頼された出版社を批判するのは簡単ではないと思います。
こういうことを書いてくれる人が一人でもいることに救われます。

他では、石井洋二郎の発言も妥当だと感じました。

 ある種の人々に「反知性主義者」というレッテルを貼って事を済
 ませてしまうのはたやすい。けれどもそのこと自体が典型的な判
 断停止であり、まさに反知性主義的な身振りであることを心得て
 おく程度の感性は、最低限持ち合わせておくべきだろう。

また、松浦寿輝が反知性主義への処方箋として、
外国語と親身につきあうことを挙げていたのは、なるほどと思いました。
(個人的には東大で働く連中などほめたくはないのですが)

そういえば、「反知性主義」で本まで出した内田樹は、
今回一度も「反知性主義」という言葉を使っていませんでした。
なにか心境に変化でもあったのでしょうか。

こうして「反知性主義」現象を追いかけていると、
出版社の安直な発想が問題だと感じます。
知性や倫理より自己保身を優先する日本のマスコミこそが、
反知性主義と呼ばれるのにふさわしいと僕は思っています。

さて、僕は仕方なくひさしぶりに文芸誌というものを買いましたが、
内容は以前よりさらにひどくなっていますね。

芸人でウケたからかわかりませんが、
演劇人や俳人などの下手な小説を載せて何が面白いのでしょうか?
小説の修行をしてきた人より素人を好むのは、
AKB文化にでも影響を受けた結果でしょうか?

それから小山鉄郎の「村上春樹の「歴史認識」」は不愉快でした。
ナルシスト村上春樹に配慮して、
出版社が批判をしないようにしていることはわかります。
(以前、爆笑問題の太田光がラジオで村上の本を揶揄したら、
出版社の人間が抗議に来たと話していました)
僕もどうせ提灯記事だとはわかっていましたが、
内容が「歴史認識」となると看過できない面があります。

小山は村上の作品に東アジア関連の記述があるというだけで、
村上が「歴史認識」を持った作家だとしていますが、
「歴史認識」とは単に歴史をネタにしていることとは違うはずです。

小山は『1973年のピンボール』に登場する双子の女の子が、
「208」「209」というトレーナーを着ていることについて、
それが昭和20年8月と9月を示していると書いています。
百歩譲ってそれが正解だったとしても、
これが村上の歴史認識の何を示しているのでしょうか?
それこそ敗戦を正面から描いた小説などいくらでもあります。
こんなのは「遊び」であって「歴史認識」であるはずがありません。

村上春樹の歴史認識を語るならば、
彼が日米戦争という事実から逃げていることを言うべきでしょう。
満州やソ連のことは書いても、
アメリカを敵として戦ったことは明確に描こうとしません。

これは白井聡流に言えば、(アメリカとの)敵対性の否認といえるでしょう。
もちろん、村上が大好きなアメリカのマーケットを配慮し、
戦略的に描かないようにしている可能性もありえますが、
どちらにしても否認をしていることは同じです。

小山の経歴を見ると、共同通信論説委員とありますので、
ジャーナリズムの世界で生きてきた人だと思われます。
それが「歴史認識」という語をいいかげんな意味で使い、
ほとんどジャーナリスティックな態度が見られないのは、
いったいどうしたことでしょう?

『1973年のピンボール』に出てくる「配電盤の葬式」エピソードが、
「日本近代の統一性、効率性の追求に対抗するアニミズム」だとは、
よくぞ書いたものです。
そんなことにアニミズムを読み取れるのであれば、
別に西洋の小説にだっていくらでもあると思いますよ。

小山は「動物と話せる言葉の力、アニミズム的な力を持つ日本人」の代表として、
村上春樹を位置づけていくのですが、
これが村上の魅力だと思っているファンがどれだけいるのでしょう?
(というか、象に話しかける=動物と話せる、ってどういうこっちゃ)

こういう中身のない持ち上げ記事で点数稼ぎを続けて、
文藝春秋は村上の本を出すに至ったのでしょう。
「「反知性主義」に陥らないための」とか言っている雑誌が、
とっくに知性を失っていると感じないわけにはいきませんでした。

 

 

 

『社会喪失の時代――プレカリテの社会学』 ( 明石書店) ロベール・カステル 著

  • 2015.06.09 Tuesday
  • 07:45

『社会喪失の時代   プレカリテの社会学』 ( 明石書店)

  ロベール・カステル 著/北垣 徹 訳 

 

   ⭐⭐⭐⭐⭐

   ナルシシズムは社会喪失したハイパーモダン時代の個人像

 

 

2013年に亡くなったフランスの社会学者カステルの、
1995年から2008年までの論文をまとめた本です。

カステルは主に賃労働をめぐる環境の「大転換」によって導かれた
「プレカリテ」の社会について多面的に考察しています。

「プレカリテ」とは「不安定」という意味ですが、
雇用環境の悪化により、賃労働が不安定化している状況は、
フランスであっても日本であってもさほど変わらないようです。

この問題をカステルは「個人からなる社会」として捉えます。
簡単に言えば、行き過ぎた個人化が進められている、ということです。
賃労働者は近代前期では国家や労働法に保護されていましたが、
後期近代になるとそれらの保護を失い、集団的連帯も形成できず、
無防備に個人化が進められていきます。

近代的個人が他に頼ることなく存在するには、
自立できるだけの所有が必要になります。
最初は私的所有が可能なブルジョアが個人となったのですが、
労働に保護が結びつく「社会的所有」が確立すると、
1970年代には多くの個人が生み出されました。
カステルはこの「社会的所有」を非常に重視しています。

この「社会的所有」が退潮していく現代になって、
2つの超近代的個人が現れるとカステルは主張します。
「超過する個人」と「欠乏する個人」と北垣徹は訳語を当てていますが、
原語はindividu par exces とindividu par defaut であるとのことなので、
「過大な個人」「過小な個人」という感じかもしれません。

この「超過する個人」についての分析が僕には興味深いものでした。

「超過する個人」は社会の中で生活していることを無視し、
自分の主観性に浸りきっている存在です。
社会からあらゆる客観的な決定要因を除外し、
個人の観点のみを考慮し個人性の中に閉じこもっている。
個人的なものが肥大化するあまり、社会的なものを排除する彼らは、
ある意味社会から離脱した「社会喪失」を生きる存在であり、
究極的にはナルシシズムへと至る、とカステルは述べます。

カステルは「超過する個人」が裕福で教養ある中産階級の若者で、
「68年精神」を持っている者としていますが、
僕には日本のポストモダンの精神を言い得ているように思えました。
ポストモダン論者が社会からの逃走や切断ばかりを語り、
主観的な領域に引きこもっているナルシストなのは、
彼らが「超過する個人」だからだと考えれば腑に落ちます。
社会から離脱した自己都合の政治を行う安倍晋三も合致するかもしれません。

 現在の社会情勢の重要な特徴とは、脱集団化や脱

 制度化の動きであり、集合的な帰属や価値からの

 離脱と結びついた個人主義の高まりである。

こう語るカステルは「超過する個人」の裏に
「欠乏する個人」という存在があることに注意を促しています。
彼らは制度による集合的束縛から切り離されたために、
個人としての自己実現が不可能になった存在です。
不安定労働がこのような人々を多く生み出しているわけですが、
カステルは彼らを救う役割を国家に期待しています。

左翼といえば国家権力を批判するものと相場が決まっていましたが、
もはやそのような時代でもないようです。
カステルが懸念しているように、
日本のポストモダン思想も安倍政権も
「欠乏する個人」など存在しないかのように振る舞っていますが、
不安定な賃労働に脅かされた人々の不安と鬱憤を、
右だろうが左だろうがイデオロギーで解決できるはずがありません。

カステルは国家が労働者を保護することが本来のあり方だと語ります。
非現実的な革命を語るよりは、たしかに現実的なのでしょうが、
日々不安定労働に勤しむ僕にはそれすら期待できないように思えます。
このままでは最終的に暴力が露出する社会になりかねません。
それが「社会喪失」を真に決定づける事態だけは避けたいものです。

 

 

 

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