『死の島 上』 (講談社文芸文庫) 福永 武彦 著

  • 2013.03.31 Sunday
  • 09:35

『死の島 上』  (講談社文芸文庫)

  福永 武彦 著

 

   ⭐⭐⭐⭐⭐

   自分自身への抵抗

 

 

福永の作品は20年くらい前でさえ絶版本が多かったので、
『死の島』は古本を探して買いました。
名作だという思いは強く、講談社文芸文庫のアンケートで刊行を希望してきました。
たしかに本を手にとった時、過度に余白のない版面に戸惑いましたが、
読み出すと案外読みやすかったです。
特に古本ではカタカナだらけの文の読みづらさが尋常ではなかったので、
それからすると、むしろ読みやすかったという印象です。
(あくまで僕の手持ちの古本との比較でしかありませんが)

作品内容は、愛している二人の女性の心中を知らされた主人公が、
現地へと駆けつけるまでの一日を描いたものですが、
合間に二人と出会ってからの一年の出来事や彼の書いた小説、ヒロインの内面が断片的に織り込まれます。
(時間の断片的構成はビュトールの『時間割』を参考にしているようです)
異色なのは、そのヒロインが広島の被爆者だということです。
トラウマという言葉ではすまない原爆の傷跡が内面独白とカタカナ文による情景描写で描かれています。

改めて読むと、
福永の繊細で上品な文体や実存的な視点によるトラウマ語りなどは、村上春樹と似たところがあるかもしれません。
それだけに、原爆の問題も実存的な問題として扱われ、社会的、歴史的な視野はほとんど見られません。
福永本人も認めているように、原爆のような社会問題は彼の資質からすると苦手な分野であることはまちがいないでしょう。
しかし、戦争体験で刻み付けられた彼の「虚無」が、資質に反したテーマを書かせたのです。
そんな「自分自身への抵抗」というか、
「書きたいたいこと」以上に「書かなければならないこと」に赴く精神こそが芸術なのだと、
作品内容はもちろん、作家としての態度からも教えられる作品です。

 

 

 

『日本文化の論点』 (ちくま新書) 宇野 常寛著

  • 2013.03.12 Tuesday
  • 09:24

『日本文化の論点』 (ちくま新書)

  宇野 常寛著 

 

   ⭐

 「ネット=新しい」がもう古い

 

 

古くは村上春樹の「趣味語り」にはじまり、
人文・社会学系の東浩紀や北田暁大などが、論考による「アイロニカルな自分語り」を垂れ流し、
次世代の宇野常寛に至って「単なる自分語りのナルシスト」に結実したというところでしょうか。

アニメや漫画を輸出するなら、コミュニケーションツールのニコニコ動画やコミケも一緒に輸出すべきだ、
と気の利いたコメントをして枝野大臣も感心したとか、不必要な自分語りには力が抜けます。
(そんなコメントで得意になれることにも驚きますが)

本書の題名は「日本文化の論点」ということでお堅い印象を与えますが、
宇野によると現代日本文化の最大の論点はAKB48だということなので、
要するに、彼の大好きな「国民的アイドル」を持ち上げたいだけのことでした。

宇野は安倍自民党圧勝に対して「末法の世だ」とか語っているのですが、
やたらに濱野智史を引用する「お友達批評」や、
彼が価値を置く〈夜の世界〉が「戦後からの脱却」を基準にして語られているあたり、
両者には類似点が多く、僕には宇野が周回遅れのランナーに思えて仕方ありません。

ネットの二次創作文化についても、どこかで聞いたような話です。

戦後的な〈昼の世界〉とそこから離脱した〈夜の世界〉の区別もよく説明されていませんし、
AKBがマスメディアに頼らず人気を生み出したというのは、事実をねじ曲げた「オレサマ史観」に思えます。
(そんな主張をするなら、「国民的」というマスメディアを頼みにした表現を好むのはおかしいですよ)

しかし、ネット革命論みたいなものは、いつでも誰かが言うんですね。
(そのわりに携帯電話が社会を変えたという話が出ないのが不思議です)
冒頭の系譜のように、ネットを消費社会の延長にある現象として考えないと、
「国民的アイドル」のように、実態以上に持ち上げる結果に陥ります。

 

 

 

『コモンウェルス(下) 〈帝国〉を超える革命論』 (NHKブックス) アントニオ・ネグリ著

  • 2013.03.12 Tuesday
  • 07:52

『コモンウェルス(下) 〈帝国〉を超える革命論』

  (NHKブックス)

  アントニオ・ネグリ/マイケル・ハート著/幾島 幸子 他訳

   ⭐⭐

   革命は貧者の阿片にもならない

 

 

『〈帝国〉』で話題になったアントニオ・ネグリとマイケル・ハートの三部作の完結編だそうです。

2001年に同時多発テロで本土攻撃を受けたアメリカの単独行動主義的な暴走を受けて、ネグリたちの〈帝国〉論が注目されたのも今や昔。
マルチチュードの多様性よりも、リーマン・ショックやオバマの登場の方がアメリカを変えた気がします。
それでもネグリとハートは革命の夢を描くことをやめない、というのが本書の第6章「革命」に示されています。

彼らの議論の要点は、
多種多様な生産を、資本に収奪されない「〈共〉的な富」のオープンなネットワークとして構成することにあるようです。
「革命」の章では、アイデンティティによる政治支配を打破することが語られています。

 「このアイデンティティの破棄という革命的プロセスが、怪物的、暴力的で、心的外傷を伴うものであることを忘れてはならない。
  自らを救おうとしてはならないーー実際、自己は犠牲にしなければならないのだ!」(p217)

僕はこの主張に共感しますが、でも、このような過酷な試練に一体どれだけの人が耐えられるのでしょうか?
多様性の謳歌によって各々好きなように生きていた人々が、不安になると国防やら国益やらで一体になりたがる。
そんなナショナル・アイデンティティにすがる心弱い人々を見ていると、
アイデンティティを破棄するという「超人」的な強さを、多くの人が持てるとは思えないのです。
ドストエフスキーの「大審問官」で提示された問題に悩むことのない人の革命論など、
アカデミックな発想に毒された世間知らずにしか思えません。
崇高な理念のために人間に無理を要求するなら、強い権力が必要になるのがオチです。

 

 

 

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