「MOバブル」 佐野波布一2003年の評論
- 2018.02.25 Sunday
- 19:35
MOバブル
佐野波布一2003年の評論
純文学の不人気
いわゆる純文学というものが不人気になってずいぶんになる。サノバとしては、以前から「純文学」という言い方には抵抗があって、普段からあまり使わないようにしている。なにしろ、「純文学」というからには「純粋」な「文学」なわけで、ということは「純粋でない文学」というものが前提されていることになるからだ。おいおい、文学に純粋であるかないかなんてあるのかい? どこで判断すんの?
第一、日本では「文学」が理解されているのか疑問だ。文学さえあやふやなのに、それに「純」とはどういうことだ? 誰かにこの言葉の成立を研究していただきたいものだが、そのような暇つぶしは暇な学者に任せるとして、サノバは早々に結論を出すとしよう。「大衆文学(文芸)」に対する「純文学」なんでしょうな、きっと。
日本には市民革命など起きたためしはなく、支配階級のトップダウンの改革しか存在しなかった。近代文学の巨人の漱石、鷗外だって武士階級の出身だ。つまり日本には支配階級と支配される階級の間にくっきりとした溝があると思いがちである。疑似封建的感覚を強く残した人々なのね。そのためいつまでたっても市民の政治参加という近代の基本が身につかないし、支配階級も下克上を嫌うからそんな教育もしないわけだ。
さて、そんな日本だから「純文学」と「大衆文学」をくっきり分ける。メインとサブをくっきり分ける。この構造を押さえておかないと、この先のサノバの話はわかりませんよ。
バブル崩壊ののち、日本のメインストリームは急速に衰退した。このあたり、ものすごく大きな話なんだけど、一行で書いちゃった。つまりはそれまで日本の主たる文化や機能と思われていたものがどんどん不人気になっていったのである。例えば、プロ野球(巨人)や相撲の人気は急落したでしょ。政党離れも進んで、無党派候補者が流行る。「自民党を壊す」なんてメインの破壊を売りにした首相が80%の支持を得る。戦後日本のメインを支えたアメリカに対する反発が強まる。松田聖子型の正統アイドルが滅び、(松山千春曰く)風俗アイドルのモーニング娘。が人気になる。新聞よりネットが偉いような言説が流行る。北海道や沖縄、因島などの僻地のミュージシャンが台頭する。
そんな中、「純文学」も支配系のメインカルチャーだから、サブカルに押されるのが流れなわけ(まあ、すでに村上春樹や村上龍はサブカル文学なのかもしれないけど)。そこで「純文学」は滅びればいいのに、他ジャンルの三流人の人気にすがろうとしていった。ミュージシャンの辻仁成や町田康や中原昌也、演劇の柳美里、映画監督の青山真治などに次々に文学賞をばらまいたのがそれ(柳美里だけは舞台を見ていないので、二流くらいかもしれない。あとは三流でOK)。日本のODA外交みたいに節操がない。
しかし実は「純文学」の敵は他ジャンルではなく「大衆文芸」にあった。サブカルの隆盛が衰退の原因なのだから、そりゃそーなのだ。
アキハバラ系の文芸
その敵となる「大衆文芸」は直木賞なんかではもちろんない。今や文芸系サブカルはマンガ・アニメ・TVゲーム類に決まってる。いわゆるアキハバラ組(秋葉原に親しんでいる電脳系オタク)の人々の御用達だ。
それらサブカルの要素を丸出しにした推理小説(?)ジャンルが、講談社のメフィストという雑誌から現れてきている。業界では講談社ノベルス系なんて言われてるらしいが。その代表が清涼院流水や舞城王太郎や西尾維新や佐藤友哉たちである。彼らのことはアキハバラ組のカリスマ東浩紀がよくお取り上げになっているが、東はあまりに彼らに近い生を生きすぎていて、彼らへの評価はすなわち自己評価となってしまい、自己弁護のために彼らを高く評価してしまうのだ。
まあ、彼らはアキハバラ組の中でも社会派と言えるんだろう。本質は同じなんだけどね。オタクの中にも差異はある。そのくらいはサノバだって尊重するよ。
さて、やっとこさ舞城王太郎にふれられそうだ。このアキハバラ系サブカル推理小説の作家である舞城王太郎が、最近純文学の生き残りを図る編集者に担ぎ出されているのだ。つまり、辻仁成や町田康の次は舞城というわけだ。狭い純文学の世界、一部の編集者の企てで簡単に世界が動く。舞城は純文学系の作品二作目にして三島由紀夫賞を受賞してしまった。選考委員の一人、宮本輝は激怒したみたいだけど。編集者にたかる男福田和也や世渡り詐欺師島田雅彦が選考委員なのだから仕方がない。
朝日新聞の書評で、高橋源一郎が舞城の『九十九(ツクモ)十九(ジュウク)』を「決定的に新しい」と評し、三島賞では福田和也が舞城の『阿修羅ガール』をやはり「新しい」と評していた。しかしどちらもどこがどういうふうに「新しい」のかについてはまるっきり語らないのである(高橋は「あえてここには書かない」らしいのだが)。こんな明らかに下手な宣伝文句に乗せられて、サノバはちょっと舞城を読んでみた。
二次創作『九十九十九』の交換可能な時間
まずは『九十九十九』。これはまさに講談社ノベルスで出ている。一応推理小説の方の作品だ。なるほど、この小説を書評するのは厄介だ。表題のツクモジュウクはこの作品の主人公の名前なのだが、もともと九十九十九というのは清涼院流水の小説の中の登場人物らしいのだ。へぇ〜、と思って清涼院流水の小説を開いてみると、確かに九十九十九という登場人物がいる。なんでこんなことになっているのかというと、実は清涼院流水さえも『九十九十九』の登場人物になっているのだ。作中で主人公の九十九十九は自分が清涼院流水によって書かれた(生み出された)人物であることを知る、というのがネタなのである。
なるほど、高橋があえて書かないのも仕方がない。書評でネタバレは反則である。まあ、でもこれが最終的なオチではないので、サノバとしては別に書いてもいいような気もする。それにこんなネタはアキハバラ組には新しくもないんじゃないか? ギャルゲーなんかではよくある構造のような気がするんだが。
作品の説明をいちいちしていることもできないので、サノバの本質直観によって作品の核になる要素を取り出してしまおう。
『九十九十九』は七話構成であるが、一話一話が並列した妄想世界として設定されている。第一話の九十九十九と第二話の九十九十九はそれぞれ独立しうる(パラレルワールドとして成立する)。実際、物語中で第五話を生きた九十九十九が第四話にタイムスリップして殺されたりする。そしてオチとしては、タイムスリップによって存在のかぶった第二、第三の九十九十九がオリジナルの九十九十九を殺すのである。そのようなケッタイな話のため、『九十九十九』は第一話→第二話→第三話→第五話→第四話→第七話→第六話と進行する構成になっている。
通常、第一話→第二話→第三話→第四話……、というように物語は順序通り連続して進んでいく。これは時の流れが線条性として把握されている限り、何も驚くことのないものである。しかし、マンガやアニメなどでは、第三話で死んだ人物や壊れた建物が、第四話で生き返ったり、すっかり復元していたりすることによく出くわす。ある時期の少年ジャンプのマンガでは、死んだキャラクターがバンバン生き返ってきた。このようなことが起こる時、第三話と第四話が連続した時間にあると読者は把握できないだろう。物語上は連続した時間と思ってあげてはいても、なんやかんや言っても第三話は第三話、第四話は第四話として始められることを知ってしまう。極端なことを言えば、『サザエさん』など何話が何話と入れ替わろうと全く問題がないわけである。日常を描くマンガやアニメほど、このような入れ替えが起こりやすいことは注目に値する。その意味では、日常とは物語が欠落し、そのために時間の線条性が失われる場所なのである。
これをもう少し詳しく説明すると、マンガやアニメの身体とは記号表現である、という問題にぶつかる。記号化された身体は、トラックに轢かれてもぺしゃんこな平面になって、空気を入れれば元に戻る、なんて表現が成立するのである。記号化された身体は、実体としては、傷つかないし、死なないし、成長しない。『サザエさん』や『ルパン三世』は話を重ねても成長することはない。ルパンに至っては声を当てていた人間(山田康夫)を置き去りにして、今も若さを維持し続けている。つまり、記号的身体は、時間進行の停滞した「永遠の日常」を生きているのである。その意味で記号的身体が存在する世界は、全て無時間という同時刻であり、その時間(世界)は交換可能となるのである。
『九十九十九』の作品世界においても時間は交換可能である。それはタイムスリップという古典的な手法で表されている。各話は時間的に並列しているために、行き来が可能である。その意味では、タイムスリップというのはただの設定であり、実質はすぐ隣の世界への侵入(越境)と考えるべきである(各話の間にある時間的ズレは、時間的ズレを含んだ設定の違いでしかなく、実際には時間は並列されている)。オリジナルの九十九十九は時間の線条性を生きている。つまり物語を生きていると言い換えることができる。その彼が殺されてしまうこの作品は、明らかにその荒唐無稽な作品世界とは裏腹に、物語(オリジナル)を廃棄して日常(シミュラークル)に帰着することへの強い執着に支えられているかが浮き彫りになるはずである。もちろん、ここで言う日常(シミュラークル)とは「永遠の日常」のことで、後に確認することとなるが、舞城の成長嫌悪という感情が求めた居場所に過ぎない。
軽いタッチのスプラッター
『九十九十九』だけでなく『阿修羅ガール』でもそうなのだが、舞城は二流スプラッター映画のような人間解剖やバラバラ殺人を好んで描く。それも軽いタッチで(軽いタッチでしか書けないという作者の能力限界もあるのだが)。この背景には、やはり強い日常への帰属感があると思われる。作者である舞城が安全な日常にどっぷり浸かっているので、非日常的な残虐な描写を軽々とすることが可能なのである。これは想像力の欠如にもつながっている。体感をするがごとく残虐さを前にするならば、それを書き表すことの難しさに捕らわれる。しかしそのような葛藤は舞城にはない。どっぷり日常に浸かっている彼は、非日常を体感する可能性をゼロと考えるからである。これが他者(自分の理解の外にあるもの)に対する想像力の欠如と結びつくのは必然である。舞城はものごとの外観しか目にしていない。メディアを通して伝わってくるものごと(外観)以上のものは存在しないと考えるスペクタクルの住人、アキハバラ組の御曹司なのである。
さて、少々はしょってしまうが、私がMOバブルと言うのは、舞城が文芸誌編集者からポスト村上春樹を期待されていると思うからである。ある部分では、舞城は三島から村上春樹への流れを引き継いでいる。それが春樹の次の時代は舞城だ、というITならぬMOバブルを引き起こしているのである。
ここであげたスプラッター要素は、古くは三島由紀夫の『憂国』あたりを読んでいただければ見て取れるはずである。谷崎にも微妙に要素はあるが、三島は確信犯である。ただし、三島の描写は舞城のお粗末な描写とは雲泥の差がある。三島のスプラッターは切腹へのこだわりでわかるように、日本という母なる共同体へのエロチックな接近を実現する手段である。切腹とはエロスである。ここまでなら、なんとか文学的なものとして把握できる。
村上春樹にそんなスプラッターはあったっけ? と思う人もいるかもしれないが、春樹作品になじみのない私でも出くわしたことがある。『ねじまき鳥クロニクル』の中でロシア兵に皮剥の拷問を受ける日本兵の描写がそれだ。ここの描写も舞城とは比べるのがかわいそうになるほどの差がある。春樹も三島と同じく読者に痛みを感じさせようと言う意図を持って描写をしている。ただし、春樹の動機は三島とは違うものであると思われる。それはエロスではなく恐怖であろう。共同体が行うスプラッターに対する恐怖が、仲間の皮剥を目撃した兵士を井戸の中に引きこもらせるのである。
死において母なる共同体への接近を夢想した三島。死から逃亡して引きこもって新たな共同体を夢想した春樹。では舞城は?
春樹の後継者たる舞城は、すでに充分に「引きこもり」の資質を持っている。今さら恐怖を持って春樹のように逃亡する必要はない。逆に、井戸の奥で自己の安全を確保しているので、おもしろ半分でスプラッターを扱えるのである。これは完全に子供じみた行為である。子供が無邪気に虫の頭をもいでみせるのと同じように、舞城は登場人物の手足をもいでみせる。そう、彼は子供なのである。舞城は母の子宮という井戸の中にいる。
父が不在で母とベッタリの自分が神の幼児的世界
『阿修羅ガール』には「グルグル魔人」と名乗るバラバラ殺人者が出てくる。彼は三つ子の子供を殺してアシュラマン(マンガ『キン肉マン』に出てくるキャラ)を作ろうとする。これがプラモデル感覚なのは読めばすぐにわかる。この「グルグル魔人」こと大崎英雄は母親を召使いのように使っている、母親ベッタリ中学生である。『阿修羅ガール』の主人公の愛子は暴行を受けて意識不明の中で、英雄の意識に接合してしまう。しかし、愛子がどうこうと言うより、舞城本人が英雄と接合する性質を持った人間であることは作品が語ってしまっている。
『九十九十九』も『阿修羅ガール』も父は不在である(『阿修羅ガール』では愛子の夢の中で父が芸能人のグッチ裕三と置き換わっている)。そんな小説は珍しくないだろうが、父どころか大人がほとんど不在である。私の読んだ村上春樹の小説も大人と言えるような内面を持つ人物は出てこない。舞城はサリンジャーの影響を受けているとネット経由で耳にしたが、春樹と言えばサリンジャーを先頃翻訳した。サリンジャーの『ライ麦畑でつかまえて』は、主人公のホールデンが大人社会のインチキに窒息寸前になる話である。ホールデンは「ライ麦畑の捕まえ役」になりたいと言う。それはつまり、子供が危険なところに落ち込まないように、手助けをしてあげる役割なのだが、重要なのは、子供の無邪気さを傷つけないようにすることへのこだわりである。子供が危険なところへ近づくと、大人はそれを注意する。注意された子供は挫折感を味わう。これが大人への道である。しかしホールデンは子供に挫折を味わわせることなく、危険回避をさせたいのである。たぶん、子供が危険なところへ近づいたら、もっと魅力的な物を提示したりしてそれと気づかぬうちに安全な方に引き戻すのであろう。身近な話で恐縮だが、私の弟は自分の娘が危険な物を握った時に、それを力ずくで奪って注意するのではなく、別の物をより魅力的に見せてそれを代わりに握らせていた。これなら子供は挫折感を感じない。
ホールデンのように無邪気さを守ろうとする態度は、たいてい無垢を美として考える思想として好意的に把握されがちである。しかし私は遠慮無く言わせてもらうが、それは子供の全能感を不必要に維持させる結果になるだけである。「無垢擁護」は行きすぎると、「誰でも全能=誰でも神」に行き着くのである。
この結論こそが、舞城を語るのに必要なのである。九十九十九は生みの親である清涼院流水が不在であることから、自分が神であると結論する。またグルグル魔人の大崎英雄は自分が神だと主張している。
オンリーワンは不戦勝のナンバーワン
九十九十九は「人間の知識には限界がある」とか「僕にはわからない」とか言うので、まるで自己の全能性を否定しているかのように見えるかもしれないが、そんな小手先の技に引っかかってはいけない。これこそが自己の全能感を裏付ける仕掛けなのである。推理作家はこんなトリックが大得意だが、私には通用しない。SMAPの「世界で一つだけの花」という曲が「ナンバーワンよりオンリーワン」という趣旨の歌詞で、個性賛美をするかのように受け取られてヒットしたが、この曲が二〇〇三年のナンバーワンヒット曲であることを無視してはいけない。こいつらはなんやかんやいってナンバーワンなのである。これは偶然でも皮肉でもない。オンリーワンとは、不戦勝によるナンバーワンなのである。自分の限界を設定することは、防御の上では好都合である。自分の身が危ないところにおいては、「僕の限界を超えています」と言えば、人から責められて傷つくことはない。つまり全能感を維持し続けられるのである。ナンバーワンを目指して人と競争することを避け、自分は自分とオンリーワンに自足すれば、挫折を避けて全能でいられる。オンリーワンは自分だけの世界の神として自分をナンバーワンに君臨させるトリックなのである。当然このオンリーワン世界には父も母も存在していない。
父の排除が、母との同一感を生み(母と完全に同一することは、母=自分となり母は自分の視界に入らない。つまり、存在していないように見える)、不必要な全能感と安全性を与える根拠となり、子供を自分だけの世界の神と思い込ませる。舞城の描く世界はそんな世界である。ハッキリさせておきたいのだが、舞城はこの世界を批評的に客体化して書いているのではない。単に彼がこの世界を生きているだけである。純文学に転身するために、口先ではいろいろなごまかしを行うだろうが、挫折を避け全能感に浸りたい彼はしょせん自己批判などできるわけがない(東浩紀と同じく)。過大評価は禁物である。
さて、これが「新しい」のだろうか? 高橋さん福田さんよく聞いてくださいね。これってただ日本の現状なんじゃないんですかね? SMAPの歌聴けばわかるでしょ。
『九十九十九』が物語的時間とオリジナルを殺すあたりなんて、そのまま東浩紀の言説を使用できる。東が「大きな物語が崩壊して、データベース的自己が成立する」と言うのと全く同じでしょ。なにしろ『九十九十九』の中で東浩紀の著書『動物化するポストモダン』が紹介されているんだから(もちろん東も舞城を高評価している。このあたりの内輪褒めはいやーねー)。
だいたい並列時間を扱ったわかりやすい作品では、エリクソンあたりが有名だ。福永武彦の『死の島』だってそう把握できる部分があるし。時間の線条性を崩すなんてプルーストからそうなわけだし。複数自己とオンリーワン妄想世界に関しては横光利一が扱っている。
だいたい最近だって村上春樹の『海辺のカフカ』がすでに舞城的世界を持つ作品になっているのである。ここではダメ押しとして『海辺のカフカ』と舞城作品の共通要素を見ていく。
近代的「中心」を手放さない『海辺のカフカ』
『海辺のカフカ』は二つの物語が一章ごとに交互に展開していく、『世界の終わりとハードボイルドワンダーランド』と同じ構成の作品である。一つは世界一タフな十五歳を目指す田村カフカの話で、もう一つは猫と話すことができるナカタさんという爺さんの話である。このような作品構成は古くはフォークナーの『野生の棕櫚(しゅろ)』などに見られるわけで、春樹得意のアメリカ文学ではなじみの物だが、もともとの出所はグリフィスの映画『イントレランス』の手法ではないかと私は思っている。フォークナーはハリウッドでも仕事をしている。『イントレランス』は異なる四つの時代の物語を同時並行的に進行させる。この手法は『海辺のカフカ』にそっくりだ。しかし『イントレランス』の同時並行はモンタージュの手法として使われていたわけで、異なる時代の話が並行するのはそれぞれの話が(観客の)イメージの上で結び合わされるからにほかならない。『野生の棕櫚』の構成もやはりモンタージュが背景にあるが、『海辺のカフカ』に関しては全くそうではない。田村カフカとナカタさんの物語は、ほとんど同時刻で進められている。グリフィスの世界の同時並行性はイメージ(意味)において結びつけられるゆえに時空を超えるのだが、春樹の世界の同時並行性は、物語時間の同時性に支えられているので、空間を超えても時間は超えられない(実は田村カフカが少女時代の実の母親とイメージ上で邂逅を果たすシーンがあるのだが、ここでは時間は超えても空間は超えられない)。
時間の同時性を保持して空間を超えるというのは、近代的な感覚である。簡単に示してしまえば、新聞やニュースというものがそうであるからだ。ニュースは「今日」という同時間に、各地の空間で何が起こったかを示す。つまり空間の異なる出来事が、時間的同時性に結びつけられているのである。その時間的同時性(結びつける側)を司る権力が「中心」である。その「中心」が国家の中枢となることで近代国家が整備されていった。
並行世界を結びつける時間的同時性
『海辺のカフカ』はこのような近代的「中心」に回収される下地を手放さない。これは作品の核にもつながってくる。二つの話が時間的同時性を保持しているのは、並行した二つの作品世界が直接的に接合しなければならないからである。『イントレランス』ではイメージ上で接合された並行世界が、『海辺のカフカ』では物語上で接合されている。物語上でナカタさんは「入口の石」を探す(これが春樹お得意のRPG的探求パターンを構成する)のだが、この石がどこへの入口になるかと言えば、隣の世界の持ち主田村カフカの内面への入口だったりする。このように、『海辺のカフカ』の並行世界は作品上でその接合自体が描かれている。そして、その接合の基盤として時間的同時性(リアルタイム)が必要とされるのである。
ちなみに「入口の石」は神社のご神体であった。要するに鏡である。鏡を媒介にして自己と他者の内面をつなぐというシステムは、戦中戦後天皇制の基本構造である。他者(=天皇)を外観的にのみ把握することで、空白となった他者の内面に、自己の内面を投影(注入)することで、他者を自己と同一化してしまうコミュニケーションなきコミュニケーション・システム。外観均質化ファシズム(みんなで髪の毛を染めてしまうような外観的ブーム心理の背景にあるシステムだ)。これについて詳細な説明をすると最低でも漱石・横光・川端を読解していかないといけないのでここでは省く。信用できない方は御自分で勉強してください。
さて、話が舞城からそれてしまって、どこが共通性だ、ということになってしまっているが、舞城の『九十九十九』の並列世界は『海辺のカフカ』のように同時性を基盤にしていない。なぜなら両者の作品は結論が全く逆なのである。だからたいていの論者は両者を似たものとして捉えることはないであろう。しかし、結論に至るまでの材料は全く共通しているのである。結論なんて作者がカッコつけたくて書いたものがほとんどで、そんなものはたいてい口先だけである。実践が伴わない作家の主張など、まともに取り合ってはいけない。作品上で実践している主張のみを評価すべきである。
固有名を「中心」に置く『九十九十九』
『九十九十九』の並行世界も物語上で接合している。この点で舞城はグリフィスやフォークナーではなく明らかに春樹寄りである。「入口の石」ならぬタイムスリップ(これが隕石によって引き起こされているのは笑える偶然だ)によって九十九十九は他の九十九十九の世界に侵入(接合)するのである。春樹が時間的同時性を接合の基盤としていたのに対し、舞城は何を基盤とするのだろうか。それはもちろん九十九十九という「名前」だろう。オリジナルの九十九十九という線条性の時間が存在していることからもそれは明らかだ。ここでいうオリジナルとは「名前」が本来帰属するべき本体のことである。固有名というものは、(発する者の立場からすれば)世界においてそれを指し示すものが一つの個体と決定されることが前提となって成立している。九十九十九という名前が指すべき人物は、世界で一人である。その一人の人物こそがオリジナルなのである。その意味では、固有名は一つの個体に縛りつけられていると言ってもいい。
舞城が企てるのは固有名の解放である。固有名を縛りつける本体=オリジナルを殺害することで、固有名は帰属すべき本体のない幽霊(これを思想用語では「シニフィエなきシニフィアン」と言ったりする)となる。九十九十九はオリジナルから自由になって、複数存在することが可能になる。
思想に詳しい方ならもうおわかりだろうが、この舞城の企てのベースにはデリダ思想(私はあえてポストモダンとは言わない)がある。「幽霊」(ファントム)というのはデリダの有名な概念である(ただし、デリダの概念はさっきの解釈とは異なる)。オリジナルを殺すという発想も、ハイデガーの「死の本来性」というオリジナル思想を、デリダが「アポリア(矛盾)」によって「死を死でなくする」ことで解体したことを単純に把握することで得られるものである。そしてデリダの差延という概念は、ハイデガーが「最終的な固有な名前」というオリジナルに固執したことを批判し、それを超え出るものとして考えられている。
日本では価値を持たないポストモダン思想
東浩紀もデリダ論で注目されたわけだが、私はこのようなデリダ思想の日本応用には思想的価値はないと思っている。なぜなら日本のメイン(本体)はとっくに死んでいる。現在、日本とはサブにこそ存在するのである。デリダ思想がポストモダン思想と言われるゆえんは、そのサブ的内容が強固なメインを成立させたモダンを破壊(脱‐構築)するからである。ハナからメインもモダンもない日本では、デリダ思想はその本源である批判思想にはならない。ただの自己弁護として利用されるだけである。その証拠に、アキハバラ組のデリダ利用者はデリダを誤読している(そして彼らはデリダ思想が誤読を責めないことを知って、確信犯で行っているのだ)。ユダヤ人であるデリダの基盤にはユダヤ思想があるわけだが、ユダヤは非到達の神を設定してもそれを追い求め続ける。非到達だからといって、神が空位であり、それゆえに自分が神だなんて考えたりはしない。ユダヤの神は非到達の神としてしか神でない、というだけの話なのである。そのためユダヤでは偶像崇拝(=到達の先取り)は禁止される。しかしアキハバラ組は偶像崇拝の権化ばかりである(ネット信者は先取りが生き甲斐だ)。東浩紀の掲げる「萌え要素」だって要するに偶像崇拝の論理である。彼のデリダ論に納得する日本の思想(というより宗教)レベルは悲しいほど低い。
ユダヤ的「非到達」の自己中心的転回
『九十九十九』は創世記と黙示録をストーリー展開の基本プログラムに使っているので、ユダヤを意識しているのだろうが、東と同じく舞城もユダヤ思想を全く理解していない。やはり彼らはユダヤ思想のポーズをしていても日本思想でしかないのである。
その分かれ目は「非到達」をどう解釈するかということにある。ユダヤ的な神は「他者」として現れる。ユダヤ的「非到達」というのは、自分の思いのままにならない「他者」を示しているのである。神とは人間の思い通りにならないものであり、だから「非到達」として現れにならない現れ(抹消された痕跡)として存在する。
しかし日本人が「非到達」を解釈すると、それは存在しないものと考えられる。なぜなら世界を眼差す視点(つまり「中心」)が自分にあるからである。自分にとって「非到達」のものは自分の世界には現れることがない。日本人にとって「見えない」ものは存在しないのと同じなのである。日本人にとって神とは「中心」である自分自身なのであるが、自分自身を見ることはできないので、自分自身が映ったモノこそが神となる(人ではなくモノでなければ、自分と思うことはできない)。それで日本では古来から鏡(シャーマン=天皇)が神なのである。舞城の結論である「自分=神」が極めて日本的な思想の直接的露出であることには注意が必要である。大部分の日本人はまだ「自分=神」という結論に不愉快なものを感じるだろう。それはこの結論が彼らに当てはまらないからではない。彼らはこの結論を媒介を通じて得ていたからである。つまりこれまでの日本人にとっては、「自分=媒介(鏡・天皇)=神」というプロセスで自己を神格化していた。戦時中の日本人を思い出して欲しい。戦死するとなぜ靖国神社にまつられるのだろうか。自分と鏡に映る自分が独立して存在していたとして、鏡に映る自分を本当の自分にしたければ、自分の方を抹消するほかない。肉体としての自分を抹消することで鏡に映る自分(自己の痕跡=名前)を残すことができるのである。鏡に映る自分が神である自分であることは説明不要だろう。戦死した日本兵は、靖国神社の名前と化すことで神となったのである。
日本兵の生きた肉体つまり、自分自身の本体はオリジナルの自己である。これを殺して幽霊になることが「自分=神」の直接性を成立させる。「オリジナル自分(肉体)=鏡に映った自分=神」から「オリジナル自分=鏡に映ったコピー自分=神」となるのである。つまりは舞城が「自分=神」と言う時、その「自分」とはすでに「コピー自分」であるわけである。
さて、靖国が出たところで三島の切腹事件を思い出してくれた人がいたら、舞城が三島由紀夫賞にふさわしいと福田和也が考えそうなことも想像できるだろう。また『僕は模造人間』なんて「コピー自分」小説を書いた島田雅彦が選んでしまう理由まで説明できてしまいそうだ。彼らはみんなこの日本的図式から逃れられない幸せな人達なのである。
それは村上春樹も同じである。さきほど『海辺のカフカ』の二つの物語の接合に関して、天皇制システムがうかがえると書いたが、まさにそうなのである。春樹も舞城も、世界の「中心」は自分にあると考えていることに変わりはない。ただ、媒介が異なるだけである。
世界の「中心」が自分にある場合、世界は「自分の世界」となる。要するにオンリーワン世界(モナド)である。そこには他者は存在せず、自分しかいない。他人はどこに存在するかというと、「隣の世界」に同じように一人でいるのである。そして世界の窓を通じて疑似コミュニケーションをする。この世界モデルはインターネットで再現される。アキハバラ組がやたらこういう世界を描くのは、単にネット世界という世界観に依存して日常を生きているからである。自分だけの個室にこもり、そこでパソコンという世界の窓を通じて疑似コミュニケーションをする。パソコンの画面=鏡に映るのは自分の欲望であり、それこそが鏡に映った自分=神なのである。
まだそこまでは到達していないみたいだが、いずれ舞城は自分の欲望=神とか言い出すことであろう。ネタバレである。
だいたい自分の世界を妄想で作り上げたら、それは自分の欲望の投影世界でしかない。舞城には『世界は密室でできている』という著書もあるが、その密室は妄想世界である。そしてこの点が春樹との共通点なのである。
アンチ・オイディプスこそが社会的欲望である日本
ずいぶん前に書いた部分に戻るが、このようなオンリーワン妄想世界を維持するために必要なことは、父の排除と母との同一化であった(母とはしばしば共同体でありうる)。この条件が『海辺のカフカ』と『九十九十九』でともに満たされている。それどころか、この条件を満たすことが物語の主軸になっているのである。
『海辺のカフカ』が、ギリシャ悲劇の『オイディプス王』を下敷きにして物語が作られていることは有名だが、その結末があまりに異なることについてはあまり言及されていない。主人公田村カフカは父を殺し母と性交する予言を受ける。これはオイディプスと同じである。父を殺したのは田村カフカ本人ではないようだが、母とは関係する。この予言の内容自体が、父の排除と母との同一化となるわけで、『海辺のカフカ』はまさにそれが実行された作品である。同じことを実行したオイディプスは、王位を追われ目をつぶして放浪者となる悲劇の結末を迎えるが、田村カフカはそうはならない。しっかりした大人に成長する未来が暗示される。
オイディプスが目をつぶすのは、自分には予言という真実が全く見えていなかったからである。オイディプス自身は父と知らずに父を殺し、母と知らずに母と関係した。つまりは無知が問題であったのである。しかし田村カフカは違う。予言を彼自身が知り、自ら家出をして父を排除し、自ら望んで母と関係する。だから目をつぶす必要もない。
春樹が何を意図して描いたのかはわからないが、結果的に予言を実行した田村カフカは立派な大人になるらしい。予言とは神託であるから、神の言葉である。日本では神=自分なので、予言とは自分の欲望の投影でしかない。つまりは予言を実行する自分とは、鏡に映った自分なのである。『海辺のカフカ』では鏡に映った自分になることが立派な大人になることだと示している。立派な大人か神かの違いはあるが、結果としては春樹も舞城も鏡に映ったコピー自分万歳である。
『九十九十九』についても書いておこう。『九十九十九』のラストでは、生みの親である神=清涼院流水が否定され、神は自分であると結論する。だから九十九十九の父は九十九十九なのだ、と述べる。父が九十九十九なら母と関係するのも九十九十九であるのは間違いない。父が自分であるというのは父が排除されているのと同じことで、母とも関係しているのだから、父の排除、母との同一化が九十九十九の妄想世界の基盤であることがわかる。
ラカンが主張する鏡像段階とは、子供が自己の鏡像として母親を見ることも含まれるのだが、この時期、母とは子供にとって鏡に映った自分なのである。つまり、鏡に映った自分こそ自己であるとするならば、そこでは母と同一化する必要があるわけである。
春樹も舞城も鏡像段階への退行が見られる。これが彼らの中にある「成長嫌悪」と結びつくわけである。前に二人をサリンジャーで結びつけたが、サリンジャーは大人を嫌悪していた。ただし、『ライ麦畑でつかまえて』は子供の目から大人の社会を批判することが主題になっているのに対し、春樹と舞城は大人を排除して自分の妄想世界に閉じこもってしまうのである。作者のサリンジャー自身は人を避けるように家に閉じこもった「引きこもり」であるが、作品『ライ麦畑でつかまえて』はそれに終わらない名作である。しかし春樹と舞城は作品ではなく、作者のサリンジャーに共感しているらしく、どちらも社会に対する批判的視座を作品に取り入れられていない(『海辺のカフカ』では行きすぎたフェミニズムを批判する部分があるが、内容は茶番である)。
それはそうなのである。春樹は心の奥底で(母系国家)共同体に依存しているし、舞城はアキハバラ組(IT系市場)共同体に依存している。森喜朗が「IT革命」とかのたまったので春樹と舞城の共同体はほとんど隣接しているのが日本の現状であるが、サリンジャーが発狂寸前になりながら単身で大人社会に挑んだことに比べて両者の貧弱さはえもいわれぬものがある。私としては彼らがサリンジャーなんておこがましいと怒りを感じる。西尾幹二がニーチェと言うのと同レベルのおこがましさである。
だいたい海外に住む日本の著名人ほどタチの悪い者はない。日本で商売しているくせに海外に住む奴は、日本を去勢しつつも日本にベッタリしている、いわば父なる日本を排除し、母なる日本と同一化した奴らである。これを日本の内部で行っているのが、ネット系引きこもりのみなさんである。彼らは日本にいながら日本の外にいる。言い換えれば、彼らはメイン日本を避けて責任のないサブ日本に居続けているのである。
コミュニケーションなきインスタントセックス
このように、春樹と舞城は自己の欲望を自己に置き換えることに肯定的である。資本主義的消費社会を生きる人間の典型と言えるわけだが、私が彼らの作品を読んで特に抵抗があるのは、コミュニケーションなきインスタントセックスである。ホントに気持ち悪いからやめてください。
彼らは自己の欲望を映す妄想世界に住んでいるので、性的欲望に溢れている。しかし、まるで性欲がないかのような顔をしている。しかしそれはポーズである。なぜなら性欲を否定しないと母との同一化が不可能となるからである。母とは性を介在しない女との関係においてしか成立しえないものである。それでも春樹&舞城は性を断念しない。自分が求めなくても女が勝手にやってくれる、という形でそれを解決するのである。『海辺のカフカ』のさくらという女は、長距離バスで乗り合わせた田村カフカと少し話しただけで携帯番号を教える。それでいて「誰にでも簡単に自分の携帯の番号を教えるわけじゃないのよ」などと言う。これは普通に考えれば明らかに誘惑のためのセリフである。そしてのちにこの女は、彼氏がいるにもかかわらず田村カフカを部屋に泊めて自分からフェラチオをしてあげるのである(ある意味男にとっては性交よりフェラの方が、女を喜ばせる責任を負わなくてすむ分快適なのだ)。男なら泣いて喜ぶシチュエーションではないか。
いろいろな評者のコメントを見たが、ほとんどがさくらだけは魅力的だった、などと言っているから日本の文壇は終わってる。恋愛のプロセスをすっとばして女と関係したって、単に自己の性欲を満たすだけである。それだったら女だったら相手は誰でもいいじゃないか。お軽ければ。『ねじまき鳥クロニクル』でも主人公は妻とろくにコミュニケーションもせずに、隣家の少女とお話ししてばかり。夫婦のリアリティなど全く感じられなかった。
『九十九十九』も女とのコミュニケーションはほとんど描かない(単なる会話しかない)のに、やたらにセックスが描かれる。貧しい。徹底的に貧しい。情愛のこもった男女の会話の場面が一カ所だけあったが、その内容もそこいらのマンガやゲームで垂れ流されているようなレベルだった。
春樹も舞城もサリンジャー的成長嫌悪に共感しておきながら、性ばかりはオヤジ化している。私の読んだ範囲では、サリンジャー作品に性の欲望丸出しの場面はなかったように思える。
作品上の登場人物が性欲を丸出しにしていなければ素人読者にはわからないかもしれない。しかし作品の構造が風俗的サポートを積極的に押し進めていることで、作者の性的願望は描かれているのである。春樹は『少年カフカ』に収録された読者からのメールの返事に「風俗嬢に巫女的なものを感じる」と書いていたが、さもありなんという感じである。巫女とは神と人間をつなぐ媒体(=シャーマン)であり、それが天皇と同じ役割を果たしていることは偶然ではない。能動的性欲を神秘で隠蔽できるのは、それが風俗嬢によって去勢されているからにほかならない。春樹や舞城は体制に反抗するような能動的性欲(攻撃性)を自ら去勢することで、風俗嬢=巫女(その背後には共同体)に進んで奉仕してもらえる世界を描いている(自ら非武装化することによってアメリカに奉仕してもらえる国のようだ!)。このような社会システムでは、女性をコミュニケーションの対象として考えるより、性欲の対象として捉えた方がより社会的な男性と見なされるのが必然である。その上で彼らは自己去勢し、マスターベーションに浸らなくてはならないのである。なんとも苦しそうな社会である。
インテリぶりたいオタクの自意識
このように春樹は自分のリビドーをトリックを用いてなんとか見えないようにしようとする作家であるが、舞城は別の所にトリックを用いている。春樹は他人に自分をきれいに見せたいようだが、舞城は自分を思想的人物に見せたいらしい。
作品を読みながらも舞城の自尊心の高さはちらほらと伝わってきたが、どうやら彼はインテリである自分こそが鏡に映った自分(=自己の欲望)であるようである。
『九十九十九』のラストの文を引用しよう。
だからとりあえず僕は今、この一瞬を永遠のものにしてみせる。僕は神の集中力をもってして終わりまでの時間を微分する。その一瞬の永遠の中で、僕というアキレスは先を行く亀に追いつけない。
思想的素養がないと理解できない大衆小説としては不親切な文である。「アキレスは先を行く亀に追いつけない」というのはエレア学派のゼノンによる「アキレスと亀」のパラドックスのことで、アキレスが亀のいる地点まで進むと、亀もその分だけ進むので永遠にアキレスは亀に追いつかない、という逆説である。ベルクソンが解き明かしているように、このパラドックスは本来なら連続性であるものを分割可能とすることから起こる。そして「空間の時間化」や「時間の空間化」を引き起こす。「終わりまでの時間を微分する」と書かれているように、九十九十九は本来は連続性であるはずの時間を分割するのである。これは「時間の空間化」を背景にしているわけだが、その分割された時間を「微分する」ということは、分割された時間においても濃度は全体と等しくなる。つまり、永遠と一瞬が等しくなる。「一瞬の永遠の中で」と言うのはそのためである。これは先に書いた「時間の交換」を成立させる手法でもある。
死ぬまでの時間に生きる人生の濃度を、一瞬という最小単位に分割した時間においても再現する。そこでは一瞬が最大であるから、それ以上の成長はない。究極の全能感である。
そうなると、僕が亀に「非到達」であるのは、一瞬を最大に生きる永劫回帰的時間だからということになる。言葉の上では。
しかし問題はそんなに言うほど実践できているのか、ということである。小説というのは、実践が評価の基準である。言うだけなら誰だってできるのだ。小説だったらそんな小難しい論理を書くのではなく、一瞬が最大であるような生を描いてみろよ、ということなのである。九十九十九はぐだぐだ言ってはいるが、終わりまでの時間を微分するほどの濃厚な生をちっとも生きていない。明らかに幼稚な生しかそこにはない。こうなるとお偉い文を読んでいるこちらが恥ずかしくなってくる。まっとうな大人も出てこない。人との交流も形だけ。セックスもするだけ。要するに体験や実感のこもったリアリティがこれっぽっちもないのである。
ネットの住人は何を書き込んでも匿名なので、自分の実践がチェックされないことに慣れていて、無責任な言動が多い。『九十九十九』のラストの文などはそのようなネット住人と同じ精神で書かれている。
いや、このようなことを可能にするために、彼はオリジナルを殺したいのである。実体であるオリジナルを消せば、存在するのは書かれた自己つまりは鏡に映った自己だけである。そうなれば言葉の上だけのことに実践が伴っているかをチェックするのは不可能だ。
出たがりの村上龍に比べて、春樹は本人がメディアに露出することはない。しかしそれ以上に舞城は顔写真さえ出さない謎の作家である。その理由についてももう理解できることだろう。舞城は書かれたものを自己としたいために、自分の実体(オリジナル=肉体)を抹消せねばならないのである。舞城は本名を消去して舞城王太郎になりたいのである。
オウム真理教徒が本名と異なるホーリーネームを持っていたように、神戸首切り殺人の犯人である少年も酒鬼薔薇聖斗という虚構の名前を記した犯行声明をマスコミに送りつけた。彼らは本名を抹消し、虚構の名を獲得するための儀式としてテロや殺人を行ったかのように見える、と言ったら言いすぎであろうか。社会学者の大澤真幸によれば、オウム真理教のサリン事件を先取りする形で起こったテロが三島事件(三島由紀夫による平岡公威の殺害?)だという。
虚構の住人となることを欲したということにおいて、舞城王太郎が三島由紀夫賞に輝いたというのなら一応の筋は通るのかもしれない。しかし三島は遺作『豊饒の海』が示す月面の海(つまり実際は水がない海だ)のように、実際は空虚で何もないところを、豊饒に見せることにおいては天才的であった。つまらないトリックや実を伴わないロジックなどではなく、文章の力によって勝負できた作家であった。
冒頭に戻るけど、いわゆる純文学が不人気になったのは三島事件の後くらいからじゃないの? それとサブカルの隆盛が大きく関係しているような気がする。その理由を社会的に考察することもできるが、それはまた別の機会にしようと思う。今回は舞城王太郎という作家を葬ったということでサノバは満足するよ。
結局今の若い人は「鏡に映った自分」になりたいんだよね(サノバは東や舞城と同世代だけど)。それはブラウン管に映った自分ということもできる。やたら不細工なくせに歌手やモデルになりたがる奴らがいるじゃない? アートやってるとかいっても実際はただチヤホヤされたいだけの奴の多いこと。サノバの在籍していた大学にはたくさんそんな奴らがいたよ。メディア化した自己。流通する自己。そういうものになりたいんだね。
それはつまるところ金になりたいってだけのことだ。みなさんお金のような人間になりたいのである。お金はみんなにチヤホヤされるし、自由になりたいものに変身できる。風俗嬢も買い放題だよ春樹さん。ギャルゲーも買い放題だよ舞城さん。
しかしどれだけ舞城という名前を売ったとしても、本名宛で赤紙が来ることは避けられないと思うけどね。所詮金なんていずれは消えるもの。豊饒の海みたいなものだ。サノバ達の世代はバブル崩壊で充分それを体験したはずなんだけど、まだまだわかっていない人が多いみたいだ。そういう若者は金のために戦争したがる保守派の金持ちに巻き込まれて命を弄ばれる危険がある。彼らは安全圏にいるから、舞城が描いたみたいに、人がスプラッター映画みたいに死んでいってもおもしろ半分で眺めていられることだろう。
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